認知症となって何がなんだか分からなくなったのが15年ほど前。
やがて動けなくなり、病院で寝たままという、およそ私たちが思う「普通の生活」とはかけ離れた生活が、人が生まれたなら中学を卒業してしまいそうなくらい、続きました。
私の人生から見ても、半分近い年月です。
もし今、体から解き放たれた魂が、元の意識を取り戻して、今のこの世を見ているというのならば、ほとんど浦島太郎のようになっていると思います。ネットはおろか電話もまだ据え置きが普通だった時代です。
そんなに長い間、もしも実は物事を考えることができていたとしたら、何を思うのでしょうか。
あまりにも辛い人生が自分を押しつぶそうとするとき、「いっそ死にたい」と考える人もいます。
実際にそうする人もいます。
先月のお盆の頃に、一度もう危ないと言われた時期がありました。
その時は、父母をはじめ家族や親類の方が交代で、病院に夜通し付き添いました。
けれど、その時は持ち直しました。
つまりは、生きたかったのでしょう。
頭があって考えることができる以上、いろいろな理屈や事実を重ね合わせて、その中から「死にたい」という結論を導きだすことがあるのは仕方ありません。
しかし、意識があるのかないのかも分からない状態で十年以上過ごし、自分の身にいよいよという時が差し迫った時、祖母が選んだのは、「生きたい」でした。
死は自分に起こる自然現象です。
毒物とか飛び降りとか、自らの死から免れない状況に追い込む事は出来ますが、最終的な死はあくまで自然現象によるものです。例えば日没。東へ走れば日没を早める事は出来ますが、だからと言って「自分で日を沈めた」と言うのはおかしいです。
だから、生きたいと思うのも、きっと自然現象によるものです。
どんなに死にたいと考えても、意識を失いつつ肉体の活動が絶える最後の一瞬、どんな生き物でも、最後に選ぶのはきっと「生きたい」なのだと思います。
私は、そのように考えました。
だとしたら、これは確かめようもなかったけれど、同じ自然現象の一環として、もう1つの事があってほしい。
その死の間際まで、どんな苦痛が続こうとも、自分にも最期の最期の一瞬の「生きたい」があるというのなら、
その「生きたい」とともに、自分が抱くことばの中に、
「ありがとう」があってくれたら。
そんな事を考えました。
いまはおばあちゃんは、久しぶりにおじいちゃんに会えると思うので、
さっさと準備にかかっていると思います。
ちなみに、胃腸がめちゃくちゃ丈夫で、焼き肉とかが好きだったようです。
おつかれさん。
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