2011/08/20

明日は試験

調査士の試験も今年で4回目。
平均は2〜3回で受かると言われてるから、もし今年受かったとしても、
普通より遅めの合格となるし、そうでなかったら、言わずもがな。

けど、試験前日における現在の心持ちは、今までの3回と少し違う。
なんて言うか、今までの3回は、「運が良ければ合格」という気持ちだったのが、
今回は「運が悪ければ不合格」に変わっている。
要するに、基本的な自分の実力に、それなりの自信がもてるようになったということ。

もちろん、何回も受験してるから、というのもあるかもしれない。
けどそれだけなら、3回目のときにも、それなりの自信はそなわっていたはずだ。
しかし今回と前回の自信の差には、単なる回数よりももっと大きな差がある。
それは、受験の為の勉強をする学校を変えたから。

今までの3回の受験の為に通った学校は、調査士は専門ではなかった。
そのため、実力別のコースや講座と言った物はなく、答案練習も
過去問やそれに少し手を加えた程度のものがほとんどだった。
その答案練習を3度重ねたわけだが、受験に際しどこか不安な気持ちは
3度目を終えた後でも拭えなかった。
そうして、落ちた。

受験を終えてすぐ、ここだと思う学校の受講申込をした。
そちらは調査士受験で王道とも言える学校で、コースや講座も多岐に渡っていた。
そうして1年近くその学校へ通い勉強し終えた今、それまでの3年とは
全く違う気持ちで臨める自分がいる。

前の学校に、カリキュラム的な欠陥があったとは絶対に言えない。
合格者はちゃんと出ている。
もちろん、自分より少ない年数で。
なお、受験対策として「過去問を押さえる」というのは基本中の基本であり、
調査士の試験は「解ける人の少ない問題に正解する」ことではなく
「誰でも解ける問題を絶対に間違えない」ことが大原則と言われている。
だから過去問がほとんどだったその学校のやり方も、最小限にして最大の効果を生む
方法だったと言える。

とはいえ、その学校での勉強を終えて、なお不安の残る自分がいたのも事実。
過去問だけでは拭いきれない不安があったのである。

けれど、今年の学校での勉強内容は、その不安を拭うのに充分すぎるほどだった。
受験に直接関係のある法令だけでなく、それに関わる法令、数多の判例、
学説、理論、実務との比較までを徹底的に語り尽くしたテキスト。
おそらくテキスト以外ではこの先一生見ないだろうと思われるような書式例や、
実務で何となく作成している書類の意義についてまで押さえられた、事細かな解説。
試験問題という的に向かってショットガンを撃ち放すような、あらゆる論点を
網羅しようと言う意気込みにあふれた練習問題。

いまでも、その全てを完全に押さえた、とは言えない。
けれど、そういうテキストを読み、問題を解いた経験が今の、この緊張しながらも
どこか不思議と落ち着いた気持ちに繋がっているのは間違いない。

運が良ければ、去年受かっていたかも知れない。
自己採点では、本当にあと一問の差だったと思われるから。
けれど、そうでなくて良かった、去年合格しなくて良かったとさえ思っている。
今年の学校に通えて、本当に良かったと。

これを他の人に話すと、変だと言われた。
所詮は試験、受かるかどうかが全てなはずなのに、と。
確かに、そうかもしれない。
今年得た知識のいったい何割が、実務で役立つかと言われると、案外大した
割り合いではないのかも知れない。
みんな、そんなもんかな。けど少なくとも、自分は違う。
合格証ではなく、この1年の勉強で得た自信こそが、
この先の自分を支えてくれそうな気がしてならない。

明日の試験で、この1年の結果が決まる。
絶対に受かるわけではない。運が悪ければ落ちるだろう。
ただし、受かるための運はいらない。
自分の力で受かってみせる。

そんな受験前夜のひとり言。

2011/08/16

Twitterとの使い分け

Twitterでツイートし始めた当初、簡単な一言はツイートで済ませ、長い考察はブログで書く、そういう棲み分けができるものと思っていた。

ところが実際にはこの有様。
すっかりツイートの方で片付いてしまっている。

考えられる原因は2つ。
一つは、考える事自体を、ツイートに収まる範囲内に切り詰めようとしていること。
連続でツイートする方法もあるにはあるが、そういうのは有名人だから許されるのであって、どこの誰だかしらない他人のツイートが自分のタイムラインの一領域を占めてしまうのって、なんだかあまりいいことに思えない。
もう一つは逆に、日々思うことは、もともと140文字以内で収めようと思えば収められることばかりだったという可能性。
このブログに今まで書いたことも、そう思えるものは多い。

自分は文章を書くと無駄な言葉が増えやすい傾向にあるので、簡潔さを求められるツイートでの発言のほうが望ましいのかもしれない。

けど、考えるべきことの全てが140字以内で収まってしまうとすれば、それはそれで危機感がある。もちろん、そんなことはない。140字以内で収まることが多いのは、ネットに発信しようとしている自分のネタ自体が、その程度のものでしかないということだ。
例えば仕事に関することを発信しようと思ったら、やっぱりツイートで収まるものは少なくなるだろう。収めるべきではないものが多いであろう。

今のところ、仕事について語るつもりがないので、ブログの更新ペースも当分の間は落ちたままになるだろうけど、いつかは仕事用のブログを持ちたい。

2011/05/31

ライアンはその後どうしたか

※「マイレージ、マイライフ」の一部ネタバレ。「バタフライ・エフェクト」も?

「マイレージ、マイライフ」をDVDで鑑賞。実に面白かった。
ところでこの映画、ラストの見解は解釈が分かれるように作られている。
空港の掲示板の前で足を止め、見上げるライアン。
やがてキャリーバッグから手を離して…

大きくは、「ライアンは仕事を続けたのか、辞めたのか」に分かれる。
少し前に、それについての議論がTwitterでなされた。

(私家版)『マイレージ、マイライフ』の一解釈をめぐる映画評論家町山智浩(@TomoMachi)と@my_yoursの議論

議論されている両者の見識はとても奥深く、自分がそんな風に評価するのさえおこがましいほどだ。
「この議論がどれだけ凄いかわかってるのか?」と聞かれたら、あわてて「わ、わかりません」などと答えかねない。

ともかく、ラストの見解は大きく分かれており、監督自身も、そうなることを意図して作ったと語っているのだから、「どちらも正解」が「正解」と言えばその通りだ。

けれど、それを踏まえた上で、やはり、自分はどちらの解釈を支持するかを考えたい。
正解がないから、自分の正解を持つ事も、心置きなくできる、そういう有難い映画だ。

自分は「ライアンは仕事を続けるために飛行機に乗った」という側の意見を支持する。
理由はこうだ。

たしかに、最後、今までのライアンの生き方のシンボルとも言えるキャリーバッグのハンドルから手を離した所でシーンは終わる。
けれど、仕事の他にあるものの大切さを学んだからと言って、仕事から離れる方を選ぶとは、どうしても考えにくい。
キャリーバッグ=「自分自身」から一旦手を離し、見つめ直す。そしてもう一度、そのハンドルを持ち直し、新たな気持ちで「自分自身」に取りかかったのではないだろうか。
その時の姿勢を新たな気持ちと表すか、諦念と表すか、天命とするか、そこでも見解は分かれるのだろうけど、ともかく、今まで見えなかった自分の気持ちを認識して、なおその認識に反する選択をする、それ自体は、合理的ではなくても、不自然な選択とは思わない。

ライアンは自分の仕事に対してこんな感じの事を言っている。自分は相手を奈落の底に落とす仕事をしているが、相手の気持ちを最大限に理解し、尊重した上で、しかし逃げる事なく、職務を全うしている。

ラストにて、それと同じ姿勢を、今度は自分に向けたと思うのだ。
仕事が全てである事は、つまり自分の家庭的部分を切り捨てているという事。
今までは、それを全く気にせずにやってきた。
けれど、もう違う。家庭に憧れる自分が、確かにいた。
今度はちゃんと、そんな自分を調査し、気持ちを理解した上で、選択外を通告する。

そうして、キャリーバッグを持ち直したと思うのだ。

2011/05/07

子供

二人目が生まれた。
男の子だ。
どう育つか…というより、自分はこの子をどう育てようとするのか…と考える。

思えば小さい頃、父親は得体の知れない怖い存在だった。
寝転んでいる父の上に乗っかってたくらいの記憶は在るが、それもある程度
大きくなってからだったと思う。
今でこそ会話も在るが、幼い頃は話をした記憶があんまりない。
どう接していいのか分からなかった気がする。
だから母親とばかり一緒にいたがった気がする。

理由は理解できる気もする。
自分は3人目だったし、仕事は忙しかっただろうし、おかげで経済的には
不自由なく、むしろ贅沢なくらいに育ててもらえた。
そのために、接する機会が犠牲になった、などと考えるのは簡単だ。
けれど今そうやって否定的に見る余裕が在ること自体、経済的な
不自由がなく育ててもらえたからに過ぎない。
逆に、たくさん遊んでくれたけど、なんでもっと仕事してくれなかったのか、
なんていう不満を抱くのだって、実に簡単な事だし。

とりあえず、今の自分は、自分の父親ほどの地位や経済性を備えてはいないし、
それと比べたら、接する機会を増やす方で育てることしかできない。
お金の事に関しては不満を抱いて、「たくさん遊んでくれたけど〜」と文句を
言われながら育っていくのかも知れない。

2011/03/30

笑い

うちの家系は、あんまり怒るということのない傾向にあるが、
その代わりに、過ちや失敗を笑う。

自分の小さい頃の思い出には、なにかちょっとおかしな事を言って、
それを家族のみんなで大笑いされた記憶がいくつもある。

もちろん、悪気はない。本人にとっては愛情表現の笑いだ。
けれどそれはあくまで本人にとっての話。
小さい頃の記憶の中で、自分は、笑われて恥ずかしくて困っていた。

確かに、怒るよりはましなのは確かだ。
けれど笑いはスパイスであり、潤滑油であるが、
時に毒でもあり、時に火を呼びおこしてしまう事もある。

子供がおかしな事を言って、それがかわいくて笑う、
それは仕方ないのかも知れないけど、子供が困った顔を見せた時には、
大人はちゃんと謝るべきだと思う。
それがどうしても嫌なら、笑いながらでもいいから、せめて抱きしめて褒めてやるべきだと思う。
後から「かわいいからだよ」とごまかすのは、逃げだと思う。

かくいう自分も家系の遺伝の中にあり、気がつけば子供の失敗を笑っている。
だからそういうときは、素直に謝るようにしている。
この遺伝だけは、自分で断ち切り、何らかのよい振る舞いに昇華させたいと思う。

2011/02/18

係の人に相談して本を探す

めい4歳、図書館で「アイスクリームやさんになりたい本はありますか」と、係の人に自分で尋ねるのに成功。色々探してもらい、最終的には絵本に落ち着いたようだが、かなり意義のある行動を取れたと思う。
大人になったらアイスクリーム屋さんになりたいと、前から周囲に公言している。普通ならそうかそうか、かわいいね、で終わるのだろう。実際、自分以外の周囲の反応はそんな感じだった。
けれど、そもそも「大人になったら何になりたいか」は、周囲から問いかけ、答えを求めたことであり、めい4歳が自発的に考えた疑問ではない。なのに、答えを聞いてそれで満足、というのは、こう言うと大げさと言われるのだろうが、無責任だと自分は思う。尋ねて、答えをもらった以上は、その答えに対して何が出来るかを大人は考え、そしてできるだけのことをすべきなのである。年齢に関わらず。
実際に将来どうなるかなんて、分かるはずも無い。しかし、めい4歳が示した自分の意志に対し周囲がどう向き合ったかは、その将来にきっと影響を及ぼす。
だから自分はめい4歳に向かって言った。アイスクリーム屋さんになるために、今でも出来る事を示した。
「図書館にはいっぱい本があるから、アイスクリーム屋さんになるための本もあるかも知れない。バーバパパの本を探す時もうまく聞けたから、こんどもまた、係の人に聞いてみようか」
そして成功した。自分で声をかけ、自分の質問をはっきり示し、係の人はちゃんと理解して、多少難しい本も含めて、色々な本を探してくれたという。4歳にしては。何と貴重な経験の詰まっていることか。
図書館には母(めい4歳の祖母)が連れて行ってくれたのだが、ちゃんと自分で出来たという話を聞いて、素直に嬉しかった。その嬉しい気持ちでこれを書いているので、なんだかぎゅうぎゅうで読みにくい。

2011/02/07

ちょっと前だったか、「批評は美のために必要」ていうツイートを見かけて、そういう直接の因果関係があるような言い方もしくは美の捉え方は自分には合わないなと思った。

そう考えた自分の背景には、過去に読んだ「美の法門」という本で語られていた考え方がある。柳宗悦さんていう方の著作で、自分には結構むつかしくてどこまで内容を理解できているのかよくわからないが、ともかく、そこでは「不二の美」なる概念が語られていた。

不二の美とは、醜いの反対の美しいではない、そういう二つに分かれる以前の境地にある美の事。
本では主に茶器を例にとって語られていたが、自分なりにその例を、現代の身近な物事に置き換えるとすると、それはイチローの記録なんかが当てはまると思う。

イチローがメジャーリーグで打ち立てた記録は輝かしい。
誰もが簡単に真似できるものではない。
その記録を「美しいもの」であるとする。
ならば、その対極に位置する「醜いもの」はあるのだろうか?
何もない。
記録を持つ人を美しいと称えても、それは記録のない人を醜いと蔑む意味にはならない。
イチローが、その記録を打ち立てる為に、誰かを批評する必要はあったのだろうか?

不二の美は、何かと比べる事もなく、ただそれ自体だけで美しい。
茶器もそのような美の例として挙げられている。
歪であろうが、汚れていようが、そのままに美しい。
その茶器を何百何千も作り続けた職人の手により、器は人の作為を離れ、
器それ自体が器をかたどったかのような境地に達しているから。
イチローも、数えきれない素振りや限りない鍛錬のなかで、きっと打席に立つときは、
何をどう打つとかでなく、ただ打つという境地に達せるのだと思う。

だから、そういう不二の美に批評は必要ない。
自分は醜いの反対である美しさよりも不二の美の方が好きだから、
そういう意見は自分には合わない、という事である。

2011/01/30

フォルダは欠陥のあるファイル管理方法であるの巻

ツイッターでつぶやいた、ファイル管理方法についての
自分なりの考察をまとめ、再編集。

フォルダは欠陥のあるファイル管理方法である
今まで自分が見た限りでは、PCのデータを管理するのに、無駄に深い階層のフォルダを作っている人が多い。命名規則さえ決めれば、そんなにいらない。

理由その1。分類にどうしても主従関係ができてしまう。例えば仕事のファイルを日付と内容種別で同時にフォルダ分けすることはできない。日付フォルダの中に種別フォルダか、その逆にするしかない。すると、種別で探すために日付フォルダを往復するような作業ロスが生じる。実際には地域とか担当とか、並列な関係に置きたい分類方法があるはずだから、それらを全部フォルダ分けしてしまうと、非常に複雑な階層構造になってしまう。
情報ポータルはかつてYahoo!がしていたようにリンクを階層的に分けていたが、その方法は廃れた。現在はタグを使った分類が主流なのも、こうした理由による自然な流れと言える。

理由その2。操作ミスで間違ったフォルダに入れる確率が上がる。何でもそうだが、優れた仕組みというのは、利用者が起こしうるあらゆるミスを、そもそも起こし得ないように考えられている。フォルダを多く作るほど、優れた仕組みからは離れていくのである。

理由その3。その2のような操作ミスなどが原因で、同じファイルが違ったフォルダに複数作られる確率が上がる。「前に作ったファイルはどこだったかな?」と思えるならまだいい。それすら忘れて、新規に作り、後から前の状態が見つかることも起こりうる。特に複数人数でファイルを共有していたりしたら、これは致命的な事態になりかねない。

以上の理由から、フォルダはPCのファイル管理方法として標準となっているが、人にとって必ずしもベストな手段ではないという認識を持つべきだ。理由その1で触れたように、少なくともタグを使う方が、後で目的のファイルを探す分には、勝手がいいのである。

命名規則を利用する
とは言っても、現在のOSではタグは使えないし、使えたとしても、膨大な数のファイルに1つ1つタグを付けて回るわけにも行かない。
そこで、フォルダ名の付け方を工夫して、階層を少なくし、かつ、目的のものを探しやすくする。
例えば自分の場合、書類の種類ではなく案件ごとにフォルダ分けをしているが、ひとつのフォルダ名を
H23.01【測量  】○○町 某名
のようにしている。年月、種別、町名、顧客名、この順番は絶対に守る。年月の桁数は半角英数にし、0を付けて桁数を揃える。種別も同様。測量の後にスペースがあるのは、他の種別名と文字数を揃えるため。町名も省略したりして極力文字数を揃える。顧客名の前は半角スペース。あとは揃えなくても気にしないし、必要に応じて他の内容名も付ける。
こうすれば、Windowsでは表示を「一覧」や「詳細」にしたとき
H22.11【測量  】甲賀町 某
H22.12【建物表題】伊賀町 乙野
H23.03【土地分筆】柳生町 北山
H23.03【分合筆 】徳川町 山田株式会社
H23.03【測量  】服部町 甲山
のようになる。
見れば分かるが、目線を縦方向に動かして探せる。これが重要なのである。これなら、例えば1000個のフォルダが並んでいても、平成22年のものを探すのは一瞬である。どんな仕事でも、大まかな年月くらいは覚えているから、それだけで探す対象はかなり絞られる。その後で種別や地域で探すのも、文字数が揃っていれば、エクセルの表を見るのと同じだから、簡単なのである。

記号や括弧の利用
フォルダやファイル名を決めるときには、記号や括弧も活用しよう。例えば未承認の書類はファイル名の先頭に□、承認済みは■を付ける、などとすれば、書類名を変えなくても、その順番で並ぶ。上記一覧では種別名を【】でくくっているが、これは見やすくする為の工夫である。コミュニティサイトでも、強調したいキーワードは良くこの括弧でくくられている。多くの利用者の間で自然に浸透している仕組みには、それなりの理由がある。

進行中案件と過去案件
あとは、進行中と完了の案件を分けておくくらいでいい。案件が並んでいるフォルダの中に、「過去の案件…」というフォルダを作っておく。他のフォルダは全て半角英数の年月で始まっているから、このフォルダは必ず最後に来る。新規案件がくればフォルダを作り、案件が終わったらそのフォルダを「過去の案件…」に放り込む。そうすれば、過去の案件を探す時、「過去の案件…」フォルダ内の1階層を探すだけでいい。検索を使う場合でも、名前が決まっているから、キーワードが決めやすい。

バージョン管理
フォルダ管理とは直接関係ないが、同じファイルのバージョン違いを残しておきたい場合には、基本的には作成日か更新日で統一し、その日付をファイル名の末尾に付けるのがよいであろう。単なる数字だと、新しい番号を付ける際に、最後に付けた番号を確認しないと行けなくなる。日付なら、過去のものより新しいに決まっている。間違っても、「最新」などは使わない。

ファイルブラウザ
ところで上記のような命名規則を使う場合、ファイルやフォルダ名の表示は等幅フォントの方が良い。Windowsの設定で変更する事も出来るが、ファイルブラウズのためのフリーウェアを利用するのも手だ。自分の場合は「TabFolder」というソフトを利用している。表示設定を変更し、フォントは等幅、表示形式はリスト、画面を2分割し、片方は案件一覧、もう片方はひな形一覧を表示するようにしている。新規案件が出来たら案件フォルダにフォルダを作成し、その中に、ひな形一覧から必要ファイルを引っ張って来てコピーするのである。

分けること自体が目的にならないよう
以上が自身の仕事で使っているファイルの管理方法。
でもあくまでこれは一例であるし、自身においても、しばしば例外的な命名をする事もある。
大事なのは「後で見たときにわかりやすいこと」であって、命名規則のために分かりづらいフォルダ名になったりしていては本末転倒なのである。

2011/01/12

議論

議論という言葉には、堅苦しくて、しかも争いであるというイメージが、
まだまだ付いて回っていると思う。

この、議論に対するイメージをどのように抱いているかって、
その社会の、ある種のレベルを表しているのだと思う。

議論とは、正しい事を言った奴が間違った奴に勝つためにするものだ、
という認識が蔓延している社会単位では、最終的には、
声の大きい人間が『勝つ』。

これからの日本の為には議論が必要だと言われるが、その前に、
議論とはどういうものかというこの認識を、社会全体で変えていかなければならない。

テレビでやってるような、相手の言葉をさえぎり合い、
自分にマイクが回ったら、延々と理屈をこねるだけのようなのを見て、
「議論ってこんなもんか」という印象を持たせるのを放置しているようでは、
その目標は遠い。

議論とは、聞き合うためにする事。
議論に勝つとは、言うなれば、相手をより理解する事。
議論に参加する人間すべてがこの認識を共有しなければ、その議論の場は
高度で有意義なものにならない。

2011/01/02

変化

今年の抱負は
・自分にとって「聞くは一生の恥」だがそれでも聞くこと
・節約を心がけること
・早く寝ること