2013/05/07

境界問題と聞く力

とある研修会で、紛争の解決手段を3つのパターンで分けて解説されていた。

1つ目は、あらゆるケースを想定し、それへの対応方法をマニュアル化するというもの。
金額・時間的コストを低く抑えられるが、「お役所的」と批判され得る側面を持つ。
ようするに、ルールなんだからそうしましょう、みたいなもの。

2つ目は、問題に対し専門的知識を持つ第三者の裁量に解決を委ね、当事者である両者はその判断に従うことを約束してもらうというもの。
これも1つ目と同様コストの利点があるが、この場合「時代錯誤的」と批判され得る側面を持つ。
ようするに、お奉行様にはかなわねえや、みたいなところがあるから。

で、昔の公的機関による解決手段はこの2つの何れかだったのだけれども、最近新たに設立された機関による解決のポリシーは、どちらとも違う、3つめのパターンであると。

それは、紛争の当事者両名の話し合いによる解決を重んじ、機関は極力その話し合いの進行を支援する立場にとどまるというもの。

このパターンは、当然当事者にとって好ましいというか、後腐れのない結果に結びつきやすいという利点があるが、コスト面では負担が大きくなりやすいという欠点がある。

当事者の間に置かれた者は、両者の意見を中立的客観的に、問題の背景も含めて深く慎重に、そして根気よく聞く必要がある。
もとめられる資質は「じゃあこうしましょう」と提案する力ではない。それでは御奉行様だ。
そうではなく、「A氏の主張はつまりはこういうもので、一方B氏はこういう主張がおありで、そこにはこれこれこういう理由がある」と、相互の意見を、相手に分かりやすいよう噛み砕いて説明する力が重要だ。

もめごとは、当事者相互が、相手に対する理解が欠けてていて発生することが多い。
お互い、自分の意見を言うことには必死だが、聞くことに必死になる人はいない。
だから間に立つものは、その両者に欠けている「聞くこと」をまず補完するのである。


ここで大きく話が変わるが、このことに時代の変化を感じる。


昔、巷でよく言われていたのは、「ノーと言える日本」だった。
自分の意見を主張する力がとても重要視されていた。

けれど今の時代はようやく、それだけじゃダメなんだな、という考えに風向きが変わりつつあるのだと思う。

「議論のしかた」というサイトで述べられていた言葉が印象的だ。
“議論とは、意見を言い合う場所ではなく、聞き合う場所なのです。”
議論という表現を用いるまでもなく、話し合いとは元来そういうもののはずだ。
言うだけならば、言い合いという言葉が別に用意されている。

今後しばらくは主張する力、自分の意見を持つ力よりも、聞く力、理解する力、相手の意見を読み解く力が重要視される流れが続いていくと思う。

もちろん、言う力と聞く力は本来合わさるべきものだから、いつか主張する人がほとんどいなくなる時が来るとしたら、またそちらが重要視されることもあるだろう。
バランスを保とうと、振り子のように揺れ動くものだろうから。