2011/05/31

ライアンはその後どうしたか

※「マイレージ、マイライフ」の一部ネタバレ。「バタフライ・エフェクト」も?

「マイレージ、マイライフ」をDVDで鑑賞。実に面白かった。
ところでこの映画、ラストの見解は解釈が分かれるように作られている。
空港の掲示板の前で足を止め、見上げるライアン。
やがてキャリーバッグから手を離して…

大きくは、「ライアンは仕事を続けたのか、辞めたのか」に分かれる。
少し前に、それについての議論がTwitterでなされた。

(私家版)『マイレージ、マイライフ』の一解釈をめぐる映画評論家町山智浩(@TomoMachi)と@my_yoursの議論

議論されている両者の見識はとても奥深く、自分がそんな風に評価するのさえおこがましいほどだ。
「この議論がどれだけ凄いかわかってるのか?」と聞かれたら、あわてて「わ、わかりません」などと答えかねない。

ともかく、ラストの見解は大きく分かれており、監督自身も、そうなることを意図して作ったと語っているのだから、「どちらも正解」が「正解」と言えばその通りだ。

けれど、それを踏まえた上で、やはり、自分はどちらの解釈を支持するかを考えたい。
正解がないから、自分の正解を持つ事も、心置きなくできる、そういう有難い映画だ。

自分は「ライアンは仕事を続けるために飛行機に乗った」という側の意見を支持する。
理由はこうだ。

たしかに、最後、今までのライアンの生き方のシンボルとも言えるキャリーバッグのハンドルから手を離した所でシーンは終わる。
けれど、仕事の他にあるものの大切さを学んだからと言って、仕事から離れる方を選ぶとは、どうしても考えにくい。
キャリーバッグ=「自分自身」から一旦手を離し、見つめ直す。そしてもう一度、そのハンドルを持ち直し、新たな気持ちで「自分自身」に取りかかったのではないだろうか。
その時の姿勢を新たな気持ちと表すか、諦念と表すか、天命とするか、そこでも見解は分かれるのだろうけど、ともかく、今まで見えなかった自分の気持ちを認識して、なおその認識に反する選択をする、それ自体は、合理的ではなくても、不自然な選択とは思わない。

ライアンは自分の仕事に対してこんな感じの事を言っている。自分は相手を奈落の底に落とす仕事をしているが、相手の気持ちを最大限に理解し、尊重した上で、しかし逃げる事なく、職務を全うしている。

ラストにて、それと同じ姿勢を、今度は自分に向けたと思うのだ。
仕事が全てである事は、つまり自分の家庭的部分を切り捨てているという事。
今までは、それを全く気にせずにやってきた。
けれど、もう違う。家庭に憧れる自分が、確かにいた。
今度はちゃんと、そんな自分を調査し、気持ちを理解した上で、選択外を通告する。

そうして、キャリーバッグを持ち直したと思うのだ。

2011/05/07

子供

二人目が生まれた。
男の子だ。
どう育つか…というより、自分はこの子をどう育てようとするのか…と考える。

思えば小さい頃、父親は得体の知れない怖い存在だった。
寝転んでいる父の上に乗っかってたくらいの記憶は在るが、それもある程度
大きくなってからだったと思う。
今でこそ会話も在るが、幼い頃は話をした記憶があんまりない。
どう接していいのか分からなかった気がする。
だから母親とばかり一緒にいたがった気がする。

理由は理解できる気もする。
自分は3人目だったし、仕事は忙しかっただろうし、おかげで経済的には
不自由なく、むしろ贅沢なくらいに育ててもらえた。
そのために、接する機会が犠牲になった、などと考えるのは簡単だ。
けれど今そうやって否定的に見る余裕が在ること自体、経済的な
不自由がなく育ててもらえたからに過ぎない。
逆に、たくさん遊んでくれたけど、なんでもっと仕事してくれなかったのか、
なんていう不満を抱くのだって、実に簡単な事だし。

とりあえず、今の自分は、自分の父親ほどの地位や経済性を備えてはいないし、
それと比べたら、接する機会を増やす方で育てることしかできない。
お金の事に関しては不満を抱いて、「たくさん遊んでくれたけど〜」と文句を
言われながら育っていくのかも知れない。