過保護に育つとは非常に厄介なもので、例えば他人への配慮に欠ける、何をするにしても指示待ちなんて特徴が良く取り上げられるけれども、それにはまずそうすることを教わらないなんてものじゃなく、むしろ遠ざけられたと言っても良いくらいに、そういうことに関する思考が働かないという理由がある。だが忘れてはいけないのがもう1つ、そういう育てられ方は、育てられる本人もどこかで嫌気がさしていて、自分だったらもっと放っておくとか、あるいはもっと遠くから見守るという理想を抱えることになり、それを他人に投影する結果、何もしない事が思いやりであるという基本概念が育ってしまう。
個人主義とか個性やプライバシーの尊重とかがとかく叫ばれた時代があったのは、日本の経済が好景気を迎えたとき、その世代の多くの子供が過保護になっていったからなのだろうか。金銭的に豊かになり、しかしそのために親の仕事時間は長くなり、家庭は核家族を目指して解体されて行った。そばにいるヒトとの関係と引き換えに、与えられるモノは増えて行った。単に生産があふれたからではなく、そういう交換があったからこそ、やがてはモノに見慣れ、ヒトは見慣れないものになった。そんな流れは、やっぱりあったのだろうか。
今、一番子供に与えたいのは、よきヒトとの関係だ。
自分が未だに上手に手に入れる事のできないソレを子供がちゃんと手に入れられたとしたら、もう一度時代に期待が持てるような気がする。早く手に入れて、俺に教えてくれ。そういうあつかましい方針。