ある場所に誰かが桜の木を植えた。
それは見事に咲き、花見の季節は周りで宴会、露店も賑わった。
時が過ぎても、宴会の人数も、露店の数も増えた。
ところがある日、桜の木が枯れ始めた。
桜の木を植えた人が亡くなり、跡を継いで世話をする人がいなくなったのである。
宴会を取り仕切る人たちは話し合った。
「もうダメだし、桜の木は切ろう」
これは、少なくとも自分の地域で毎年催される「夏祭り」で起こっている、
あるいは起こりつつあることの例えである。
「無音盆踊り」のニュースも現時点では記憶に新しい。
櫓も踊りも失われた町もある。
しばらくは、誰も気にしないだろう。
花より団子。団子をより一層美味しくすれば、花がなくても何とかなる。
けれど問題はその次の時代である。
桜や櫓が失われた後の宴を、露店だけを受け継ぐ人に、集まる理由は継がれない。
楽しいからに決まってるだろうと、託す側は言うだろう。
しかしなぜ楽しいのかも分からない。食べ物を売る店ならどこにでもある。
集まりたいなら好きな人同士でよいだろう。
その時そこでなければならない理由が分からない。
無くしてしまったのだから当然だ。
その地域の人だけが知っている、桜のもとに集まること。
その地域なら誰でも知ってる振付で、みんなが踊りを一斉に舞うこと。
普段はそれぞれ、別々の人同士であっても、
その時その場所でだけは、みんなが一つになれる、
祭りとはそういうものだったのだ。
中心もないまま、露店やアトラクションだけが工夫をこらしている夏祭りを見ると
虚しさだけを感じる。
沢山の人があつまっている。
けれど人の目線はどこにも集まらない。
ばらばらが、それぞれなままで、たくさんいる。
要するに、大阪や東京の普段の市街地である。
田舎町が、都会の日常を町内の中心に再現して、
それを祭りと呼んで、ありがたがっているだけである。