読んだ本で知った。
絵馬はその昔、神社に本物の馬を奉納してたことにその期限を持つらしい。
それが、馬じゃ大変だって事で、代わりに絵に描いた馬になった。
そのうち、別に馬じゃなくてもいいかってことで、違う絵になったりした。
ですよねー。
やっぱりそうですよねー。
やっぱり仏壇も、パチンコ台みたいに、奥が液晶になっても
全然不思議じゃない。
タッチペンで画面を叩いて、ちーんて鳴らしたらスロットが
回転しはじめて、777が出たらこう…やめた。
人の気持ちは変わらない。
死んだ人を弔いたい、願いを叶えたい、どうにかしてそれを形にしたい、
形を与えたら、なにか確かな事が約束されそうで。
お葬式も結局そこから始まったには違いないけど、自分の家は浄土真宗であるものの、
そこで読まれるお経の意味は、ちっとも知らなかった。
ただ、そういうものだと言われて、そうしてきた。
そうやって、どこかで意味が抜け落ちる。
意味の抜け落ちた形に、気持ちは込められないっす。
ただし、形に全く意味がないわけじゃない。
かつて、確かにその形に意味はあった。
だから、もう一度気持ちや意味も、その形から自分たちの思うように
もう一度組み立て直せばいい。
年賀状がメールに変わりゆくというなら、弔電メールも
香典オンライン決済も決して絵空事と笑っていられない。
それで気持ちが込められるという人間が日本を作り上げて行くのなら。