自分の子育てポリシーをなんとなく。
遊びにおける親の立場には「審判」と「相手」がある。
別の言い方をすると「遊ばせる」と「(一緒に)遊ぶ」があるということ。
例えば公園の遊具なんかで子供に危険がないように見守ることは
「遊ばせる」だけどキャッチボールやバドミントンの
相手をするのは「遊ぶ」になる。
イベントやショー等に連れて行くこと、おもちゃを買い与えること、
親らしい育て方の多くは、審判だ。
けれど子供の立場、遊ぶという行為を主体に物事を見てみたらどうだろう。
審判さえいれば成り立つ遊びとは、つまりは一人遊びだ。
一人遊びが遊びの全てであるはずはない。
その外側には、相手を必要とする遊びの世界が広がる。
どこかで楽をしたいと思う親は、知らず知らず審判に回る。
そのほうが、自分は動かなくていいから。
しかも、親らしい育て方をしているように見えるから。
逆に、子供の相手になるということは、自分も子供になるということ。
そして、それでも審判は必要だから、審判と相手を同時にすることになり、
けっこう労力がいる。
審判でもあるという立場を忘れてしまうと、ただのでっかい子供であり、
ものによっては、事故が起こった時のショックも大きい。
そういう難しさがある。
父母の役割分担がどうあるべきかはわからない。
ただ確かなのは、子育てとは、食事を与え、服を着せ、掃除洗濯をしてやり、
遊び遊ばせることだ。その中で子ども自身が学んでいく。
その環境を豊かにしておくことだ。
そして自分は食事や衣服や掃除洗濯は不得意で、嫁のほうが要領よくやる。
だからせめて遊びに関しては、その専門、担当でありたいと思う。
そのために、時にはお兄さん、時には弟、時には友達であるかのように、
できるだけいろんな視点=相手で子供に接し、その上で審判である父親の
立場を忘れないようにしようと思っている。
だから、娘に対し、教えたり、注意することも多いけど、
あえてわからなくて困ったり、間違えたり、知らなくて聞いたりすることもよくする。
そしてそういう時ほど、娘は一生懸命頭を働かせ、自分自身をより豊かに
しているように見えるのだ。
2012/08/16
2012/04/20
パズルのピース
集団のあり方には、たぶん、パズルのように、複雑でいろんな
形が組み合わさって集まるのと、四角いタイルのように、シンプルな
形が規則正しく並んでいくという、2通りの方向性がある。
パズルタイプの集団は、みな凹凸があるから、うまく合わさらない
ことも多いだろうが、一度噛みあうと、強力な結束が生まれる。
一方、四角タイルタイプの集団は、パズルのような結束は生まれなから、
個々の位置は容易に入れ替わるが、致命的な隙間が生まれることもなく、
柔軟性を保ちながら全体としてのまとまりを維持できる。
いわゆる「ばらばらでいっしょ」は、前者を目指しての
ことなんだろうけど、しかし日本はもともと、後者のタイプだった。
それが急に前者を目指すと、悪い場合には何が起こるか。
「全部が同じ形のピースでできたパズル」ができあがる。
不定形なのに同じ形どうしだから、組み合わさることもできない。
規則正しく並んでも、隙間が埋まらない。
かくして、繋がりの希薄な集団が生まれる。
結束も強く、入れ替わりにも対応できる
「ギザギザのタイル」の集団になれればいいんだけど。
形が組み合わさって集まるのと、四角いタイルのように、シンプルな
形が規則正しく並んでいくという、2通りの方向性がある。
パズルタイプの集団は、みな凹凸があるから、うまく合わさらない
ことも多いだろうが、一度噛みあうと、強力な結束が生まれる。
一方、四角タイルタイプの集団は、パズルのような結束は生まれなから、
個々の位置は容易に入れ替わるが、致命的な隙間が生まれることもなく、
柔軟性を保ちながら全体としてのまとまりを維持できる。
いわゆる「ばらばらでいっしょ」は、前者を目指しての
ことなんだろうけど、しかし日本はもともと、後者のタイプだった。
それが急に前者を目指すと、悪い場合には何が起こるか。
「全部が同じ形のピースでできたパズル」ができあがる。
不定形なのに同じ形どうしだから、組み合わさることもできない。
規則正しく並んでも、隙間が埋まらない。
かくして、繋がりの希薄な集団が生まれる。
結束も強く、入れ替わりにも対応できる
「ギザギザのタイル」の集団になれればいいんだけど。
2012/02/06
くやしさ
前のエントリーが調査士試験前夜で止まってるけど、試験は無事に合格。
次は行政書士。意欲とかそういうのではなく、取れないと家業が継げないのです。
取れてもどこまで継げるかどうかわからんが。
くやしさ。
1月末、五色百人一首大会に娘5歳は出場した。
幼稚園年中組は一人だけでの最年少。昨年も出たけど、今から思えば無茶したもんだ。
しかし、結果だけ見ると、昨年より良くなかった。
昨年は3戦2勝1敗で予選落ちだったが、今年は2戦全敗。
ただし、今年の相手は3年生と2年生の男の子で、かなり強かったと思う。
そしてその二人相手に、手も足もでなかったわけではなく、
2年生相手に17枚中7枚、3年生相手に同5枚という成績。
3年生なんて、言ってみれば5歳から見てほぼ倍の年齢だ。
体格も雰囲気も、大人相手ほどではないにしても、まるで違う。
予選が終わって、娘は自分のところに、無表情で戻ってきた。
そして、肩に顔をうずめて、しばらく泣いた。
悔しかった。
普通に考えたら笑うしかないような年齢差相手に、それでも悔しかった。
なぜなら、1年間練習してきたから。
春から夏にかけては、幼稚園への登園時間中、歩きながら札を覚えた。
家では札を全部裏返しにして記憶力を試したり、やり方を色々工夫して、練習を続けた。
風呂場には試合で使う20枚の札での決まり字を壁に貼って覚えた。
年明け頃だったか、私宛に「かるたたいかいで かつね」と手紙で約束までしてくれた。
積み重ねたものが、それだけあった。
だからこそ、年齢差とか条件にかかわらず、負けた悔しさは相当なものだっただろう。
自分がそういう悔しさを知ったのは、いつ頃だっただろう。
中学の頃を思い出してみる。
陸上部で、短距離走で、決して勝てない友達がいた。
最後の運動会で競争相手になり、やっぱり負けた。
でもあの時の気持ちは、悔しさとは少し違った。どこか清々しかった。
もうこれで終わりだという、諦念めいたものが混じっていたからだろうか。
結局、自分の記憶に一番残っている悔しさは、昨年の調査士試験に落ちた時のことだ。
よく思い出したらまだ有るのかもしれないが、でも思い出せないということは、
あってもそれほど大した気持ちではなかったのだろう。
悔しさをバネに、とよく言われる。
娘はそのバネをたった5歳で手に入れた。
これはどこまで弾むのだろう。
それを見届けさせてもらいたい。
2011/08/20
明日は試験
調査士の試験も今年で4回目。
平均は2〜3回で受かると言われてるから、もし今年受かったとしても、
普通より遅めの合格となるし、そうでなかったら、言わずもがな。
けど、試験前日における現在の心持ちは、今までの3回と少し違う。
なんて言うか、今までの3回は、「運が良ければ合格」という気持ちだったのが、
今回は「運が悪ければ不合格」に変わっている。
要するに、基本的な自分の実力に、それなりの自信がもてるようになったということ。
もちろん、何回も受験してるから、というのもあるかもしれない。
けどそれだけなら、3回目のときにも、それなりの自信はそなわっていたはずだ。
しかし今回と前回の自信の差には、単なる回数よりももっと大きな差がある。
それは、受験の為の勉強をする学校を変えたから。
今までの3回の受験の為に通った学校は、調査士は専門ではなかった。
そのため、実力別のコースや講座と言った物はなく、答案練習も
過去問やそれに少し手を加えた程度のものがほとんどだった。
その答案練習を3度重ねたわけだが、受験に際しどこか不安な気持ちは
3度目を終えた後でも拭えなかった。
そうして、落ちた。
受験を終えてすぐ、ここだと思う学校の受講申込をした。
そちらは調査士受験で王道とも言える学校で、コースや講座も多岐に渡っていた。
そうして1年近くその学校へ通い勉強し終えた今、それまでの3年とは
全く違う気持ちで臨める自分がいる。
前の学校に、カリキュラム的な欠陥があったとは絶対に言えない。
合格者はちゃんと出ている。
もちろん、自分より少ない年数で。
なお、受験対策として「過去問を押さえる」というのは基本中の基本であり、
調査士の試験は「解ける人の少ない問題に正解する」ことではなく
「誰でも解ける問題を絶対に間違えない」ことが大原則と言われている。
だから過去問がほとんどだったその学校のやり方も、最小限にして最大の効果を生む
方法だったと言える。
とはいえ、その学校での勉強を終えて、なお不安の残る自分がいたのも事実。
過去問だけでは拭いきれない不安があったのである。
けれど、今年の学校での勉強内容は、その不安を拭うのに充分すぎるほどだった。
受験に直接関係のある法令だけでなく、それに関わる法令、数多の判例、
学説、理論、実務との比較までを徹底的に語り尽くしたテキスト。
おそらくテキスト以外ではこの先一生見ないだろうと思われるような書式例や、
実務で何となく作成している書類の意義についてまで押さえられた、事細かな解説。
試験問題という的に向かってショットガンを撃ち放すような、あらゆる論点を
網羅しようと言う意気込みにあふれた練習問題。
いまでも、その全てを完全に押さえた、とは言えない。
けれど、そういうテキストを読み、問題を解いた経験が今の、この緊張しながらも
どこか不思議と落ち着いた気持ちに繋がっているのは間違いない。
運が良ければ、去年受かっていたかも知れない。
自己採点では、本当にあと一問の差だったと思われるから。
けれど、そうでなくて良かった、去年合格しなくて良かったとさえ思っている。
今年の学校に通えて、本当に良かったと。
これを他の人に話すと、変だと言われた。
所詮は試験、受かるかどうかが全てなはずなのに、と。
確かに、そうかもしれない。
今年得た知識のいったい何割が、実務で役立つかと言われると、案外大した
割り合いではないのかも知れない。
みんな、そんなもんかな。けど少なくとも、自分は違う。
合格証ではなく、この1年の勉強で得た自信こそが、
この先の自分を支えてくれそうな気がしてならない。
明日の試験で、この1年の結果が決まる。
絶対に受かるわけではない。運が悪ければ落ちるだろう。
ただし、受かるための運はいらない。
自分の力で受かってみせる。
そんな受験前夜のひとり言。
平均は2〜3回で受かると言われてるから、もし今年受かったとしても、
普通より遅めの合格となるし、そうでなかったら、言わずもがな。
けど、試験前日における現在の心持ちは、今までの3回と少し違う。
なんて言うか、今までの3回は、「運が良ければ合格」という気持ちだったのが、
今回は「運が悪ければ不合格」に変わっている。
要するに、基本的な自分の実力に、それなりの自信がもてるようになったということ。
もちろん、何回も受験してるから、というのもあるかもしれない。
けどそれだけなら、3回目のときにも、それなりの自信はそなわっていたはずだ。
しかし今回と前回の自信の差には、単なる回数よりももっと大きな差がある。
それは、受験の為の勉強をする学校を変えたから。
今までの3回の受験の為に通った学校は、調査士は専門ではなかった。
そのため、実力別のコースや講座と言った物はなく、答案練習も
過去問やそれに少し手を加えた程度のものがほとんどだった。
その答案練習を3度重ねたわけだが、受験に際しどこか不安な気持ちは
3度目を終えた後でも拭えなかった。
そうして、落ちた。
受験を終えてすぐ、ここだと思う学校の受講申込をした。
そちらは調査士受験で王道とも言える学校で、コースや講座も多岐に渡っていた。
そうして1年近くその学校へ通い勉強し終えた今、それまでの3年とは
全く違う気持ちで臨める自分がいる。
前の学校に、カリキュラム的な欠陥があったとは絶対に言えない。
合格者はちゃんと出ている。
もちろん、自分より少ない年数で。
なお、受験対策として「過去問を押さえる」というのは基本中の基本であり、
調査士の試験は「解ける人の少ない問題に正解する」ことではなく
「誰でも解ける問題を絶対に間違えない」ことが大原則と言われている。
だから過去問がほとんどだったその学校のやり方も、最小限にして最大の効果を生む
方法だったと言える。
とはいえ、その学校での勉強を終えて、なお不安の残る自分がいたのも事実。
過去問だけでは拭いきれない不安があったのである。
けれど、今年の学校での勉強内容は、その不安を拭うのに充分すぎるほどだった。
受験に直接関係のある法令だけでなく、それに関わる法令、数多の判例、
学説、理論、実務との比較までを徹底的に語り尽くしたテキスト。
おそらくテキスト以外ではこの先一生見ないだろうと思われるような書式例や、
実務で何となく作成している書類の意義についてまで押さえられた、事細かな解説。
試験問題という的に向かってショットガンを撃ち放すような、あらゆる論点を
網羅しようと言う意気込みにあふれた練習問題。
いまでも、その全てを完全に押さえた、とは言えない。
けれど、そういうテキストを読み、問題を解いた経験が今の、この緊張しながらも
どこか不思議と落ち着いた気持ちに繋がっているのは間違いない。
運が良ければ、去年受かっていたかも知れない。
自己採点では、本当にあと一問の差だったと思われるから。
けれど、そうでなくて良かった、去年合格しなくて良かったとさえ思っている。
今年の学校に通えて、本当に良かったと。
これを他の人に話すと、変だと言われた。
所詮は試験、受かるかどうかが全てなはずなのに、と。
確かに、そうかもしれない。
今年得た知識のいったい何割が、実務で役立つかと言われると、案外大した
割り合いではないのかも知れない。
みんな、そんなもんかな。けど少なくとも、自分は違う。
合格証ではなく、この1年の勉強で得た自信こそが、
この先の自分を支えてくれそうな気がしてならない。
明日の試験で、この1年の結果が決まる。
絶対に受かるわけではない。運が悪ければ落ちるだろう。
ただし、受かるための運はいらない。
自分の力で受かってみせる。
そんな受験前夜のひとり言。
2011/08/16
Twitterとの使い分け
Twitterでツイートし始めた当初、簡単な一言はツイートで済ませ、長い考察はブログで書く、そういう棲み分けができるものと思っていた。
ところが実際にはこの有様。
すっかりツイートの方で片付いてしまっている。
考えられる原因は2つ。
一つは、考える事自体を、ツイートに収まる範囲内に切り詰めようとしていること。
連続でツイートする方法もあるにはあるが、そういうのは有名人だから許されるのであって、どこの誰だかしらない他人のツイートが自分のタイムラインの一領域を占めてしまうのって、なんだかあまりいいことに思えない。
もう一つは逆に、日々思うことは、もともと140文字以内で収めようと思えば収められることばかりだったという可能性。
このブログに今まで書いたことも、そう思えるものは多い。
自分は文章を書くと無駄な言葉が増えやすい傾向にあるので、簡潔さを求められるツイートでの発言のほうが望ましいのかもしれない。
けど、考えるべきことの全てが140字以内で収まってしまうとすれば、それはそれで危機感がある。もちろん、そんなことはない。140字以内で収まることが多いのは、ネットに発信しようとしている自分のネタ自体が、その程度のものでしかないということだ。
例えば仕事に関することを発信しようと思ったら、やっぱりツイートで収まるものは少なくなるだろう。収めるべきではないものが多いであろう。
今のところ、仕事について語るつもりがないので、ブログの更新ペースも当分の間は落ちたままになるだろうけど、いつかは仕事用のブログを持ちたい。
ところが実際にはこの有様。
すっかりツイートの方で片付いてしまっている。
考えられる原因は2つ。
一つは、考える事自体を、ツイートに収まる範囲内に切り詰めようとしていること。
連続でツイートする方法もあるにはあるが、そういうのは有名人だから許されるのであって、どこの誰だかしらない他人のツイートが自分のタイムラインの一領域を占めてしまうのって、なんだかあまりいいことに思えない。
もう一つは逆に、日々思うことは、もともと140文字以内で収めようと思えば収められることばかりだったという可能性。
このブログに今まで書いたことも、そう思えるものは多い。
自分は文章を書くと無駄な言葉が増えやすい傾向にあるので、簡潔さを求められるツイートでの発言のほうが望ましいのかもしれない。
けど、考えるべきことの全てが140字以内で収まってしまうとすれば、それはそれで危機感がある。もちろん、そんなことはない。140字以内で収まることが多いのは、ネットに発信しようとしている自分のネタ自体が、その程度のものでしかないということだ。
例えば仕事に関することを発信しようと思ったら、やっぱりツイートで収まるものは少なくなるだろう。収めるべきではないものが多いであろう。
今のところ、仕事について語るつもりがないので、ブログの更新ペースも当分の間は落ちたままになるだろうけど、いつかは仕事用のブログを持ちたい。
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