1回から9回のどこかか?答えは出ない。
どのポジション?どの投球、どの打球?答えは出ない。
どういう切り口なら、答えは出るだろう。
というより、試合のある部分を切り取ってしまって、
果たして「試合らしさ」は得られるのか。
大量得点が入った時。致命的なエラーがでた時、それを人は
試合のハイライトと呼ぶが、しかしハイライトのない試合は
試合らしくないのだろうか。例えば毎回大量得点だったり、
0点のままだったり、シーソーゲームだったりした場合は、
果たしてハイライトはあるのか。
試合のハイライトが、必ずしも明確でない、見解によって違うの
なら、どうやらハイライトという部分によってしても、
ひと言で言い表せる「試合らしさ」は得られない。
「人生あるがまま」という。
あるがまま、とは、いかにもその人の人生らしい、ということだ。
人生らしさってなんだろう?
そう考える時、これもまた野球の試合と同様、
部分を切り取った一言で表せられるものではないのではない。
しかし通常、9回裏が終われば、とりあえず1つの試合が終わる。
全ての回を持ってして試合と呼ぶならば、少なくとも
その全体が試合毎の「試合らしさ」と呼ぶしかなさそうだ。
同様に、人生も、全体を持って人生らしさと呼ぶしかないのだろう。
ただ、試合は9回で終わるけど、人生を考える私たちはいつも人生の途中、
3回表なのか5回裏かは知らないが、その途中の回を生きている。
だとしたら、人生の1回表から、途中である現在までの全体が、
現時点における「人生らしさ」である。
ところで野球の試合では、過去の回の展開を振り返り、
現在の状況を見極め、次の作戦を見定める。
作戦は必ずしも当たるとは限らない。けれど作戦通りに試合が進めば、
その試合は必ず評価される。すなわちそこに「試合らしさ」が生まれてくる。
ならば人生も、過去の自分を振り返り、現在の自分を見定め、
次の自分が成すべき事を見定める。これらのつながりが、自分の「人生らしさ」を
組み立てていく事であり、言い換えれば「あるがままの人生」を
築き上げて行く事になるのだろう。
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