2010/05/31

努力も素質

中学の頃に漠然とそんなことを考えてたけど、
だいたいそういうようなことが哲学的にちゃんと論じられてたのね。
勉強になるぜハーバード白熱教室。
でももちろん、自分がそう考えてたのは哲学的見解ではなく、
(能力主義への反論や完全平等の議論を踏まえたとしても)単なる嫉妬によるものだけど。

2010/05/15

「最低でも金」

という文章だが、発言した人が政治に関わって来たというだけで

「金」の字が「かね」と読むように見えて来るから不思議だ。

2010/05/08

今になって勝間氏vsひろゆき氏のニュースの話題

http://brd.dailynews.yahoo.co.jp/SIG=11rmp3ji6/EXP=1273837092/*http%3A//www.asks.jp/users/hiro/68256.html
(ひろゆき氏ブログ)

「ネットの書き込みは実名にすべき」という勝間氏と
「強要しても意味ない、現状と同様そう思う人だけやってればいい」
というひろゆき氏の対談だったっぽい

オール実名投稿にして幸せになれるかどうかはわからんが
実際やってみたら、ネットの価値観とかガラッとかわりそうだ。
今政治では自民から民主へガラッと変わって大変な事になってるが
例え今後また自民が与党に戻るにしても、変わらないままが良かったとまでは
思わん。旅行から帰って来て「やっぱり家が一番」というのは
旅行に行かなきゃ良かったという意味ではない。

ところで、冒頭に上げたひろゆき氏のブログに書いてる、幸福論について。
「何を幸せと感じるかは人それぞれだから、金の有無だけで
他人の幸不幸を決めるのはおかしい」
という持論だ。

話は全然違うけど、地球は丸いが、自分が立ってる地面は平らだ。
同じモノのはずなのに、例えばサッカーのグラウンドの白線を引くときに
「これは地球の半径を持った円弧だ」と考える人はいないだろう。
でもこの範囲が広がって、道路だとか、航空経路だとかを考える規模に
なって来ると、いよいよ地球の半径を持った「曲がった地面」となってくる。
ようするに、視野によって、同じ物でもどうとらえるべきかが違ってくるのね。
山や谷など起伏もあれど、全体としては球というわけだ。

幸せにも同じ事が言えると思う。
個人的に何を幸せかと考えるのと、ある集団全体として何を幸せと捉えるかは、
同じ幸せでも、視野が違うから、違って来る。
個人、家族、町内、都市、国家、世界、それぞれのスケールによって、
平面からだんだんと球面へ変わるような、幸せの持ちようの変化が生ずる。

ひろゆき氏の考える幸せも、あくまでミクロ視点においての正しい幸福論であり、
マクロな視点での幸せを考える場合においてまでも、当てはまるとは言えない。

全体の幸せを考える場合の1つの方法として、「最大多数の最大幸福」がある。
何が幸せかは知らんが、最も多くの人が、最も幸せと感じることがあったら、
それを目指すべきとするものだ。功利主義と言うのかな。

そういう、大規模集団を視野としての「お金=幸福」は、妥当だと思う。
全員ではないだろうけども、お金持ちっていうか、経済的に景気を良く
することが、例えば日本は幸せに近づくんじゃねえの?という意見に、
幾ら何でも、日本人の過半数が反対するとは考えにくい。

「ネットを実名で」という考え方も、「最大多数の最大幸福」的には、もしか
すると効果があるのかも知れない。その意味では、勝間氏の考えには納得する。

ただし、この「最大多数の最大幸福」もまた、全てにおいて絶対ではない。
代表的なのが、命に関わる場合で、要するに「一人が死ねば皆が助かる
場合、そいつはさっさと殺すべきか」という問題だ。

これに対し、
「そもそも、一人一人の幸せを守る為にどうすべきかという問題から出発して、
最大多数の最大幸福が考えだされたのだから、そのために、全体が個人の
幸福を勝手に奪うような事はあってはならない」と言われる。

勝間氏とひろゆき氏の対談にも、これと良く似た問題が原因で、
すれ違いが起きたのではないかと思う。

すなわち、勝間氏は社会全体の幸福を考えていて、それ自体は正しいかも
しれないが、その為に、結果的にはひろゆき氏という個人の考える幸福を
犠牲にしなさいと、ひろゆき氏にせまってしまった。
建物に例えれば、あなたの持っているビルはとても大きいが、もっと沢山の
人が快適に済めるようにリフォームしなさいと、建て直しをせまった。
少なくとも、ひろゆき氏には、そう写った。
と、見てよいのではないか。

そりゃあ、知らんがな、お前んちでやれ、ってなる。
ただし、もしそういうリフォームがなされたら、快適になるかも、
という可能性までは否定しない。
それでもやっぱり、そういうリフォームを求めるなら、いくら巨大なビルの
オーナーであっても、ひろゆき氏という個人ではなく、せめて全体を扱う専門
組織である政府を相手にすべきであろう。

…というところまで、「ハーバード白熱教室」の講義を聴いた内容に基づいて
考えてみた。続きはまた番組を見て考える。

2010/05/05

聞く教育

今の教育方針は、ゆとり教育からの転換に流れを変え始めている。
ゆとり教育で得られたものよりも、失った物の方が多かったという結論だと言える。

「やはり教育の本質は詰め込みだ」 という声も少し耳にする。
どの程度真剣な声なのかは分からないが、少し気にかかる。

ゆとりを反省するのは仕方ないにしても、
過去の方針に単に立ち返るだけではおかしい。
ゆとり以前の教育に反省点があったからこそ、ゆとり教育が始まったのだ。
確かに、詰め込み、丸暗記、お手本教育といった方法は、考える力の
基盤を固める方法という意味では有効であり、ゆとりになってその大事な
基盤が失われてしまったという見解は確かだと思う。
しかし、詰め込みだけでは、得た基盤から新たな自分の意見を導きだす力が育たない。
自分は何を詰め込まれたのか、それを考える時間すら奪われて詰め込みに追われた。
これでは詰め込んだ物に意味がなくなる。だから、もう少し自分を見直す時間を与えよう。

そういった反省点から、ゆとり教育が始まったはずだ。
だから、単に詰め込みやお手本教育方針に立ち戻るだけでは、日本の教育は前進しない。
ゆとり教育は、本当は自分の意見を考える時間を与えたかったのだ。
だがその実態は、多くがただの放置放任主義になってしまった。

しかし、過去に比べて、少しは意見を述べられる人間が増えたのではないだろうか。
かつて日本人はイエスマンなどと自らを揶揄して来た。
いまもそれは変わらないと見る向きもあるだろうが、変わる所では変わっていると見える。

この見方には、派遣やサービス残業の事例を用いて、容易に反論を考えられると思う。
でも本当にそうだろうか。
派遣やサービス残業といった実態には、嫌でも嫌とは言えない権力が絡んでいる。
言いたいことがあったら言えと常日頃から思っている、
支配者立場の人も居るかも知れない。
だが、それは、下の人間の発言する機会を政治的に支配しようとする意志の現れでもある。
本当に、人の意見を聞きたかったら、言えと言わず、ただ聞けばいいのである。

実は、自分が提案したい次の教育方針のヒントも、ここにある。
それがタイトルにも上げた「聞く教育」だ。
立場さえ平等かそれ以上なら、日本人でも言いたいことは幾らでも言う。
だからネットでは、良い発言もそうでないものも、無数に飛び交っている。
だが悲しいかな、言う力を身につけた人は多いが、聞く力を身につけている人は少ない。
相手の意見を誤解し、あるいは遮って、自己主張に夢中になる。
ただひと言「それはこういうことですか」と相手の意見を確かめるだけでも、
話の進み具合が全然違って来るはずなのに。

これからの教育では、「聞く力」を重視してみてはどうか。
こちらの意見がどう聞こえたか、確かめてみる。
あるいは、相手の意見を自分がどう理解したか、相手に聞いて確かめてみる。
そういう習慣を大事にして、身につけて行くのだ。
「身につけさせる」ではない。
「聞く力」は、教育者側にも求められることになる。
だからもちろん「言って聞かせる」ではない。
つまり、詰め込みとゆとり、双方がはらんでいた「一方的である」という反省点を踏まえることにもなるのだ。
また、これも非常に大事だが、「ただ聞くだけ」では、聞く力とは言えない。
「どうして分からないの?」「何がわからないの?」
これらの質問が相手を責めるような意味合いで使われるように、
聞く力とは、考える作業を一方的に相手に求めるものではない。
「適切な質問を、聞く立場が考える力」でもあるのだ。
聞く力と言う力(=問うべき事があれば、新たにそれを「聞く」力)、
両輪のバランスこそが重要である。

次世代の教育方針には、教育者自身もその方針の被支配者的立場に身を置いて考える、
そのような「聞く教育」を求めてみてはどうか。

2010/05/02

今年の園芸

とりあえず半分

エコポイントが怪しい

エコポイントを申請したのが1月の終わり。

3ヶ月経っても、一向に音沙汰がなかったので、ネットで確認。


電話番号と購入店の電話番号を入れると、

「処理済み、メールかはがきが送付されました」の旨の通知が。


けど、そんな覚えないので、今度は電話で問い合わせ。


「あー、処理は出来ているんですけど、これからはがきを送る準備にかかっております」

???


2〜3日後、はがきが来た。


あやしい
なんてあやしいタイミング