2010/05/05

聞く教育

今の教育方針は、ゆとり教育からの転換に流れを変え始めている。
ゆとり教育で得られたものよりも、失った物の方が多かったという結論だと言える。

「やはり教育の本質は詰め込みだ」 という声も少し耳にする。
どの程度真剣な声なのかは分からないが、少し気にかかる。

ゆとりを反省するのは仕方ないにしても、
過去の方針に単に立ち返るだけではおかしい。
ゆとり以前の教育に反省点があったからこそ、ゆとり教育が始まったのだ。
確かに、詰め込み、丸暗記、お手本教育といった方法は、考える力の
基盤を固める方法という意味では有効であり、ゆとりになってその大事な
基盤が失われてしまったという見解は確かだと思う。
しかし、詰め込みだけでは、得た基盤から新たな自分の意見を導きだす力が育たない。
自分は何を詰め込まれたのか、それを考える時間すら奪われて詰め込みに追われた。
これでは詰め込んだ物に意味がなくなる。だから、もう少し自分を見直す時間を与えよう。

そういった反省点から、ゆとり教育が始まったはずだ。
だから、単に詰め込みやお手本教育方針に立ち戻るだけでは、日本の教育は前進しない。
ゆとり教育は、本当は自分の意見を考える時間を与えたかったのだ。
だがその実態は、多くがただの放置放任主義になってしまった。

しかし、過去に比べて、少しは意見を述べられる人間が増えたのではないだろうか。
かつて日本人はイエスマンなどと自らを揶揄して来た。
いまもそれは変わらないと見る向きもあるだろうが、変わる所では変わっていると見える。

この見方には、派遣やサービス残業の事例を用いて、容易に反論を考えられると思う。
でも本当にそうだろうか。
派遣やサービス残業といった実態には、嫌でも嫌とは言えない権力が絡んでいる。
言いたいことがあったら言えと常日頃から思っている、
支配者立場の人も居るかも知れない。
だが、それは、下の人間の発言する機会を政治的に支配しようとする意志の現れでもある。
本当に、人の意見を聞きたかったら、言えと言わず、ただ聞けばいいのである。

実は、自分が提案したい次の教育方針のヒントも、ここにある。
それがタイトルにも上げた「聞く教育」だ。
立場さえ平等かそれ以上なら、日本人でも言いたいことは幾らでも言う。
だからネットでは、良い発言もそうでないものも、無数に飛び交っている。
だが悲しいかな、言う力を身につけた人は多いが、聞く力を身につけている人は少ない。
相手の意見を誤解し、あるいは遮って、自己主張に夢中になる。
ただひと言「それはこういうことですか」と相手の意見を確かめるだけでも、
話の進み具合が全然違って来るはずなのに。

これからの教育では、「聞く力」を重視してみてはどうか。
こちらの意見がどう聞こえたか、確かめてみる。
あるいは、相手の意見を自分がどう理解したか、相手に聞いて確かめてみる。
そういう習慣を大事にして、身につけて行くのだ。
「身につけさせる」ではない。
「聞く力」は、教育者側にも求められることになる。
だからもちろん「言って聞かせる」ではない。
つまり、詰め込みとゆとり、双方がはらんでいた「一方的である」という反省点を踏まえることにもなるのだ。
また、これも非常に大事だが、「ただ聞くだけ」では、聞く力とは言えない。
「どうして分からないの?」「何がわからないの?」
これらの質問が相手を責めるような意味合いで使われるように、
聞く力とは、考える作業を一方的に相手に求めるものではない。
「適切な質問を、聞く立場が考える力」でもあるのだ。
聞く力と言う力(=問うべき事があれば、新たにそれを「聞く」力)、
両輪のバランスこそが重要である。

次世代の教育方針には、教育者自身もその方針の被支配者的立場に身を置いて考える、
そのような「聞く教育」を求めてみてはどうか。

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