2010/05/08

今になって勝間氏vsひろゆき氏のニュースの話題

http://brd.dailynews.yahoo.co.jp/SIG=11rmp3ji6/EXP=1273837092/*http%3A//www.asks.jp/users/hiro/68256.html
(ひろゆき氏ブログ)

「ネットの書き込みは実名にすべき」という勝間氏と
「強要しても意味ない、現状と同様そう思う人だけやってればいい」
というひろゆき氏の対談だったっぽい

オール実名投稿にして幸せになれるかどうかはわからんが
実際やってみたら、ネットの価値観とかガラッとかわりそうだ。
今政治では自民から民主へガラッと変わって大変な事になってるが
例え今後また自民が与党に戻るにしても、変わらないままが良かったとまでは
思わん。旅行から帰って来て「やっぱり家が一番」というのは
旅行に行かなきゃ良かったという意味ではない。

ところで、冒頭に上げたひろゆき氏のブログに書いてる、幸福論について。
「何を幸せと感じるかは人それぞれだから、金の有無だけで
他人の幸不幸を決めるのはおかしい」
という持論だ。

話は全然違うけど、地球は丸いが、自分が立ってる地面は平らだ。
同じモノのはずなのに、例えばサッカーのグラウンドの白線を引くときに
「これは地球の半径を持った円弧だ」と考える人はいないだろう。
でもこの範囲が広がって、道路だとか、航空経路だとかを考える規模に
なって来ると、いよいよ地球の半径を持った「曲がった地面」となってくる。
ようするに、視野によって、同じ物でもどうとらえるべきかが違ってくるのね。
山や谷など起伏もあれど、全体としては球というわけだ。

幸せにも同じ事が言えると思う。
個人的に何を幸せかと考えるのと、ある集団全体として何を幸せと捉えるかは、
同じ幸せでも、視野が違うから、違って来る。
個人、家族、町内、都市、国家、世界、それぞれのスケールによって、
平面からだんだんと球面へ変わるような、幸せの持ちようの変化が生ずる。

ひろゆき氏の考える幸せも、あくまでミクロ視点においての正しい幸福論であり、
マクロな視点での幸せを考える場合においてまでも、当てはまるとは言えない。

全体の幸せを考える場合の1つの方法として、「最大多数の最大幸福」がある。
何が幸せかは知らんが、最も多くの人が、最も幸せと感じることがあったら、
それを目指すべきとするものだ。功利主義と言うのかな。

そういう、大規模集団を視野としての「お金=幸福」は、妥当だと思う。
全員ではないだろうけども、お金持ちっていうか、経済的に景気を良く
することが、例えば日本は幸せに近づくんじゃねえの?という意見に、
幾ら何でも、日本人の過半数が反対するとは考えにくい。

「ネットを実名で」という考え方も、「最大多数の最大幸福」的には、もしか
すると効果があるのかも知れない。その意味では、勝間氏の考えには納得する。

ただし、この「最大多数の最大幸福」もまた、全てにおいて絶対ではない。
代表的なのが、命に関わる場合で、要するに「一人が死ねば皆が助かる
場合、そいつはさっさと殺すべきか」という問題だ。

これに対し、
「そもそも、一人一人の幸せを守る為にどうすべきかという問題から出発して、
最大多数の最大幸福が考えだされたのだから、そのために、全体が個人の
幸福を勝手に奪うような事はあってはならない」と言われる。

勝間氏とひろゆき氏の対談にも、これと良く似た問題が原因で、
すれ違いが起きたのではないかと思う。

すなわち、勝間氏は社会全体の幸福を考えていて、それ自体は正しいかも
しれないが、その為に、結果的にはひろゆき氏という個人の考える幸福を
犠牲にしなさいと、ひろゆき氏にせまってしまった。
建物に例えれば、あなたの持っているビルはとても大きいが、もっと沢山の
人が快適に済めるようにリフォームしなさいと、建て直しをせまった。
少なくとも、ひろゆき氏には、そう写った。
と、見てよいのではないか。

そりゃあ、知らんがな、お前んちでやれ、ってなる。
ただし、もしそういうリフォームがなされたら、快適になるかも、
という可能性までは否定しない。
それでもやっぱり、そういうリフォームを求めるなら、いくら巨大なビルの
オーナーであっても、ひろゆき氏という個人ではなく、せめて全体を扱う専門
組織である政府を相手にすべきであろう。

…というところまで、「ハーバード白熱教室」の講義を聴いた内容に基づいて
考えてみた。続きはまた番組を見て考える。

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