めい4歳、図書館で「アイスクリームやさんになりたい本はありますか」と、係の人に自分で尋ねるのに成功。色々探してもらい、最終的には絵本に落ち着いたようだが、かなり意義のある行動を取れたと思う。
大人になったらアイスクリーム屋さんになりたいと、前から周囲に公言している。普通ならそうかそうか、かわいいね、で終わるのだろう。実際、自分以外の周囲の反応はそんな感じだった。
けれど、そもそも「大人になったら何になりたいか」は、周囲から問いかけ、答えを求めたことであり、めい4歳が自発的に考えた疑問ではない。なのに、答えを聞いてそれで満足、というのは、こう言うと大げさと言われるのだろうが、無責任だと自分は思う。尋ねて、答えをもらった以上は、その答えに対して何が出来るかを大人は考え、そしてできるだけのことをすべきなのである。年齢に関わらず。
実際に将来どうなるかなんて、分かるはずも無い。しかし、めい4歳が示した自分の意志に対し周囲がどう向き合ったかは、その将来にきっと影響を及ぼす。
だから自分はめい4歳に向かって言った。アイスクリーム屋さんになるために、今でも出来る事を示した。
「図書館にはいっぱい本があるから、アイスクリーム屋さんになるための本もあるかも知れない。バーバパパの本を探す時もうまく聞けたから、こんどもまた、係の人に聞いてみようか」
そして成功した。自分で声をかけ、自分の質問をはっきり示し、係の人はちゃんと理解して、多少難しい本も含めて、色々な本を探してくれたという。4歳にしては。何と貴重な経験の詰まっていることか。
図書館には母(めい4歳の祖母)が連れて行ってくれたのだが、ちゃんと自分で出来たという話を聞いて、素直に嬉しかった。その嬉しい気持ちでこれを書いているので、なんだかぎゅうぎゅうで読みにくい。
2011/02/18
2011/02/07
美
ちょっと前だったか、「批評は美のために必要」ていうツイートを見かけて、そういう直接の因果関係があるような言い方もしくは美の捉え方は自分には合わないなと思った。
そう考えた自分の背景には、過去に読んだ「美の法門」という本で語られていた考え方がある。柳宗悦さんていう方の著作で、自分には結構むつかしくてどこまで内容を理解できているのかよくわからないが、ともかく、そこでは「不二の美」なる概念が語られていた。
不二の美とは、醜いの反対の美しいではない、そういう二つに分かれる以前の境地にある美の事。
本では主に茶器を例にとって語られていたが、自分なりにその例を、現代の身近な物事に置き換えるとすると、それはイチローの記録なんかが当てはまると思う。
イチローがメジャーリーグで打ち立てた記録は輝かしい。
誰もが簡単に真似できるものではない。
その記録を「美しいもの」であるとする。
ならば、その対極に位置する「醜いもの」はあるのだろうか?
何もない。
記録を持つ人を美しいと称えても、それは記録のない人を醜いと蔑む意味にはならない。
イチローが、その記録を打ち立てる為に、誰かを批評する必要はあったのだろうか?
不二の美は、何かと比べる事もなく、ただそれ自体だけで美しい。
茶器もそのような美の例として挙げられている。
歪であろうが、汚れていようが、そのままに美しい。
その茶器を何百何千も作り続けた職人の手により、器は人の作為を離れ、
器それ自体が器をかたどったかのような境地に達しているから。
イチローも、数えきれない素振りや限りない鍛錬のなかで、きっと打席に立つときは、
何をどう打つとかでなく、ただ打つという境地に達せるのだと思う。
だから、そういう不二の美に批評は必要ない。
自分は醜いの反対である美しさよりも不二の美の方が好きだから、
そういう意見は自分には合わない、という事である。
そう考えた自分の背景には、過去に読んだ「美の法門」という本で語られていた考え方がある。柳宗悦さんていう方の著作で、自分には結構むつかしくてどこまで内容を理解できているのかよくわからないが、ともかく、そこでは「不二の美」なる概念が語られていた。
不二の美とは、醜いの反対の美しいではない、そういう二つに分かれる以前の境地にある美の事。
本では主に茶器を例にとって語られていたが、自分なりにその例を、現代の身近な物事に置き換えるとすると、それはイチローの記録なんかが当てはまると思う。
イチローがメジャーリーグで打ち立てた記録は輝かしい。
誰もが簡単に真似できるものではない。
その記録を「美しいもの」であるとする。
ならば、その対極に位置する「醜いもの」はあるのだろうか?
何もない。
記録を持つ人を美しいと称えても、それは記録のない人を醜いと蔑む意味にはならない。
イチローが、その記録を打ち立てる為に、誰かを批評する必要はあったのだろうか?
不二の美は、何かと比べる事もなく、ただそれ自体だけで美しい。
茶器もそのような美の例として挙げられている。
歪であろうが、汚れていようが、そのままに美しい。
その茶器を何百何千も作り続けた職人の手により、器は人の作為を離れ、
器それ自体が器をかたどったかのような境地に達しているから。
イチローも、数えきれない素振りや限りない鍛錬のなかで、きっと打席に立つときは、
何をどう打つとかでなく、ただ打つという境地に達せるのだと思う。
だから、そういう不二の美に批評は必要ない。
自分は醜いの反対である美しさよりも不二の美の方が好きだから、
そういう意見は自分には合わない、という事である。
登録:
投稿 (Atom)