2011/02/07

ちょっと前だったか、「批評は美のために必要」ていうツイートを見かけて、そういう直接の因果関係があるような言い方もしくは美の捉え方は自分には合わないなと思った。

そう考えた自分の背景には、過去に読んだ「美の法門」という本で語られていた考え方がある。柳宗悦さんていう方の著作で、自分には結構むつかしくてどこまで内容を理解できているのかよくわからないが、ともかく、そこでは「不二の美」なる概念が語られていた。

不二の美とは、醜いの反対の美しいではない、そういう二つに分かれる以前の境地にある美の事。
本では主に茶器を例にとって語られていたが、自分なりにその例を、現代の身近な物事に置き換えるとすると、それはイチローの記録なんかが当てはまると思う。

イチローがメジャーリーグで打ち立てた記録は輝かしい。
誰もが簡単に真似できるものではない。
その記録を「美しいもの」であるとする。
ならば、その対極に位置する「醜いもの」はあるのだろうか?
何もない。
記録を持つ人を美しいと称えても、それは記録のない人を醜いと蔑む意味にはならない。
イチローが、その記録を打ち立てる為に、誰かを批評する必要はあったのだろうか?

不二の美は、何かと比べる事もなく、ただそれ自体だけで美しい。
茶器もそのような美の例として挙げられている。
歪であろうが、汚れていようが、そのままに美しい。
その茶器を何百何千も作り続けた職人の手により、器は人の作為を離れ、
器それ自体が器をかたどったかのような境地に達しているから。
イチローも、数えきれない素振りや限りない鍛錬のなかで、きっと打席に立つときは、
何をどう打つとかでなく、ただ打つという境地に達せるのだと思う。

だから、そういう不二の美に批評は必要ない。
自分は醜いの反対である美しさよりも不二の美の方が好きだから、
そういう意見は自分には合わない、という事である。

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