びっくりするほど友人がいない。
時々顔を合わせる人、ネットで連絡を取ってる人、その程度で、
一緒にどこかへ遊びにいく人などいない。
もとから交遊範囲は狭かった。
広い付き合いはなく、どちらかというと特定の人に付きっきりみたいな状態がほとんどだった。
いじめに合う事はなかった。
絵がうまいとか走りが速いとか、何かしらそつなくこなせるものがあったので、露骨に嫌がらせを受ける事はなかった。
けれど逆に、それが全てだった。
「絵のうまい人」「走りの速い人」
高校時代、当時の友人に言われて納得してたけど、自分のことを誰かに人間性で語られることがなかった。
原因がそれではないのは明らかだが、そつなくこなせる事を逆恨みしたこともあった。
自分にもうちょっと才能がなければ、人間性で何とかしようと言う思いも生まれただろうに、才能があるから逆に、それにすがって自分の存在を確保していた。
けれど、たとえその才能が天賦のものだったとしても、大して変わりはしなかっただろう。
誰かの友人としての自分って、なんだろう。
結婚して、子供も出来て、旦那と父親とにはなれた。
それが救いだが、そのことで、欠け落ちている「友人としての自分」が埋まるわけでもない。
そう言えば、結婚式に呼んだ友人は一人もいなかった。建前上の理由は、町内の人たちで席が埋まったから。
けれど席が空いていても、きっと呼ばなかっただろう。
単体の付き合いばかりだったから、グループとして呼べない。
末っ子で、わがままに育って、近所に同い年の同性の友達もいなくて…
思えば自分には、そもそも友人関係を築く要因に恵まれていなかった。
けっしてそのせいにしたいわけではないが、とにかく自分は、あらゆる「友達の輪」から外れていた。輪の中に入る事は時々あっても、輪として繋がりを持つ事がなかった。
人の顔が今もなかなか覚えられない。
目が悪いのも原因の1つだったろう。
中学以降の学校では、クラス内で自分以外の全員は友人同士なんだ、クラス内に知らない人がいるのは自分だけだと思い込んでいた記憶がある。
わがままに育って、今まで大事にしてこなかった。その時遊んでもらってた友達に、ただ頼るばかりだったり、それどころかひどい仕打ちをした思い出ばかりが残っている。
だから今はその報いでこうなっている。
今更その大事さに気づいたところで、どうしようもない。
知らない事が多すぎて恐いから、すぐ自分で壊してしまう。
自分にとって、友人とは子供の手に握られた一輪の花だ。
大事にしたいのに、どうしたらいいかが分からずに、簡単に握りつぶしたり、枯れさせてしまう。