2010/10/26

長生き

ちょっと前のジャンプで、幼児が老人に向かって
「おじいちゃんたち長生きしてね」みたいなことを言ったら
「わしらはもう長生きしている。君らこそ、果たして長生きできるかな…?」
みたいなやりとりがあって、妙に納得させられたことが未だに頭に残っている。

ほんとにできるかなあ、長生き。

2010/10/14

何にもなかった

そういえば、聴いてたのはいつだったか。
学校のバスの帰り、電車の帰り。半分寝ながらとか、ジャンプ読みながら、あるいは、暮れていく窓の外を見ながらだった。何にもしてないときだった。

思い出したくないようなことはもちろん、逆に楽しい事でさえ思い出すのが嫌になるときでも、何にもしてなかったときの、聴いてた音楽とともにほんのり浮かんで来る思い出は、心に波風を立てず、ただ静かに思い出させてくれる。
何もなかったからこそ、思い出すと、心が落ち着く。
そういうことなのか。何もしてない事の大切さって。

2010/10/13

音楽って凄いと感じる

思い返せば、自分に青春と呼ばれる時代などなく、
そもそもそう呼ばれそうな年代のころ既に、その言葉に距離感を持っていたし、
過ごしたあの時期をもしも無理にでもそう呼ぶならば、
痛々しくて、惨めで、後悔するような思い出したくない事ばかりで、
楽しかったはずのことも、全部その痛々しさで打ち消され、心的外傷を負ったような
呻き声でおつりを払わされる、青春とは牢獄の中から眺める桜と青空の事なのかと、
また、中身のない問題に責められてしまう。

それなのに、久々にSimon & Garfunkelの「America」が部屋に流れ出す時、
思い出はなぜかやさしい感じに色褪せてて、まるで自分の過ごしたあの罪に満ちた時期を、
青春と呼んで肯定しても、許してもらえるような錯覚に陥る。
Simon & Garfunkelの曲だけは、なぜか匂いさえ感じる。懐かしい匂いが鼻をくすぐる。

2010/10/09

旅探し

プロフィール欄で「(自分とは)意志を持ったドーナツの穴」などと書いているが、これは以前に幾つかかじった哲学的な情報により、現代では、全ての外的要因を取り去った後に残る、根源的な、完全に主体的な自分というものはなくて、ある社会的集団のなかに生まれ、ある社会的集団における情報との関係でしか「自分」なるものは成立しない、そういう考え方が主流であるのだと知ったことによるもの。
もちろん、もっと昔はそうではなくて、何者からも独立した完全なる個体にあこがれていた。
けれどその実態は「これではない」の積み重ね、結局、他者との関係性を取り払った中に自分を探そうとした為に、ますます自分が失われていくという、ありがちな失敗に陥った。
そんなときに都合良く「自分などない」という思想に出会ったものだから、こんどはその思想に安心を求め、それまでの自分さえも否定し、更に自分なるものは失われていった。
確かに、どこかに根源的自分を求め、探し続けるという旅の目的は正解ではないのだろう。
けれど、見つからないものを探すのは間違った事なのだろうか。
自分探しの旅を続けて、その先に自分は見つからなかったけど、旅を続けたのは確かに自分という存在だった。旅の軌跡が、ゆえにこれから向かう旅の行く先が、自分だった。
自分なるものを手に入れた多くの人の中にも、そういう人はいるはずだ。
自分は今まで何も手に入れてなかったし、どこにも行ってなかった。
唯一救われたのは、結婚して子供が出来て、「家族の父親である自分」を授かったことだ。
まあ、それでお腹がふくれるわけでもなく、また、いつまでも持っていられるものでもない。
しかしながら、おかげさまで、後の事は分からないけど、今だけは、幸せですと言わせてもらえる。