2010/10/09

旅探し

プロフィール欄で「(自分とは)意志を持ったドーナツの穴」などと書いているが、これは以前に幾つかかじった哲学的な情報により、現代では、全ての外的要因を取り去った後に残る、根源的な、完全に主体的な自分というものはなくて、ある社会的集団のなかに生まれ、ある社会的集団における情報との関係でしか「自分」なるものは成立しない、そういう考え方が主流であるのだと知ったことによるもの。
もちろん、もっと昔はそうではなくて、何者からも独立した完全なる個体にあこがれていた。
けれどその実態は「これではない」の積み重ね、結局、他者との関係性を取り払った中に自分を探そうとした為に、ますます自分が失われていくという、ありがちな失敗に陥った。
そんなときに都合良く「自分などない」という思想に出会ったものだから、こんどはその思想に安心を求め、それまでの自分さえも否定し、更に自分なるものは失われていった。
確かに、どこかに根源的自分を求め、探し続けるという旅の目的は正解ではないのだろう。
けれど、見つからないものを探すのは間違った事なのだろうか。
自分探しの旅を続けて、その先に自分は見つからなかったけど、旅を続けたのは確かに自分という存在だった。旅の軌跡が、ゆえにこれから向かう旅の行く先が、自分だった。
自分なるものを手に入れた多くの人の中にも、そういう人はいるはずだ。
自分は今まで何も手に入れてなかったし、どこにも行ってなかった。
唯一救われたのは、結婚して子供が出来て、「家族の父親である自分」を授かったことだ。
まあ、それでお腹がふくれるわけでもなく、また、いつまでも持っていられるものでもない。
しかしながら、おかげさまで、後の事は分からないけど、今だけは、幸せですと言わせてもらえる。

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