2010/01/25

歴史とは人なり

最近、業務のオンライン化というのが進められていて、以前まで役所まで足を運んでいた手続きを、ネットを通じてしましょう、紙は電子化しましょう、という動きが活性化している。

それはいいのだけれど、この流れ、おおざっぱに言えば「デジタル化」なるものの動きを、しばしば勘違いされて捉えられているのではないかと思う。

こんなことがPCでできます、これが時代の流れです、みなさんも使いましょう、と号令がかかる。その運動は、特にデジタルへの意識の低いアナログな人にとっては、まるでデジタルが時代の先にあり、今もその先へと歩を進めており、アナログ人間はそのデジタルの進む同じ方向へ、早く追いついて下さい、と言われているように映る。

ここに思い違いがある。

そもそも時代とは、全てがある決まった一方向に向かって進んでいるものではない。

何が言いたいか。
デジタルは、 デジタルの先へ進んでいるのではない。
アナログがデジタル化へと進む一方で、デジタルはアナログを目指して進んでいるのである。

デジタルは最初、0と1だけの世界から始まった。
色で言えば、白か黒。「完全にOK」か「完全にダメ」かの、究極にアトミック(原子的)な世界だった。
しかしそれでは使えないと、桁を2つにした。
そうすると、00,01,10,11と、色で言えば4つの段階を出せるようになった。
それを3桁、4桁…と増やして行く事で、やがて人間の眼には一段階の差が判別できないような、24桁の0か1による、1677万7216色を扱えるようになった。
つまりそれだけの「中間」を手に入れた、言い換えれば、アナログへと進んだのである。

不動産登記のオンライン申請利用率は現在10%ちょいだと言う。
これを『アナログ人間がデジタルに追いつけていない事を表す数字』だと言うならば、同時に『不動産登記におけるデジタルがアナログに追いつけていないことを表す数字』だとも言わなければならない。
その意味を忘れてしまうと、デジタルがデジタルに向かって進んでしまう。これは危うい。自分の先を見失い、必ず迷走を始める。

例えば現在当然のように使えるインターネットも、最初はコマンドラインからだった。
しかし「PCが人間に向かって」進歩した結果、利用するための敷居が下がり、敷居が下がった事で、利用できる人が増えた。その事と、利用しようとする人間側の基礎知識やリテラシーなるものが育ってきた、すなわち「人間がPCに向かって」進歩したのとは同時に起こっているのである。
それを忘れると、あたかも「自分が自分からPCに追いついた」かのような錯覚に陥り、追いついていない人間を「遅れているもの」と認識しようとする。
そうではない。
遅れているものすなわちアナログ人間は、追いつけないのではない。
むしろ待っているのだ。
デジタル人間がその技術を持って進歩しアナログ人間に近づいてきてくれる事を、待っているのだ。

デジタル化オンライン化とは、今までの、そしてこれからの歴史をデジタルにする事。
歴史とは、紙に残ったもの、記録に残ったものでもあるが、それ以上に、その紙に書いた、記録を残した人間の事。
長い間、紙媒体にて仕事を続けてきた人は、その分だけ「歴史」を所持しているのである。

だからオンライン化、デジタル化とは、そういうアナログな人間に、PCをただ使わせて目指す事ではない。その人がデジタル技術を使えないというなら、それを使える人間からその人に向かって、自分たちの技術を進め、歩み寄らせて行く。あたかも、ネットの世界がコマンドラインからグラフィカルへと降りてきたように。

それこそが本当の「デジタル化」なのだ。

2010/01/17

命の心

昨年9月に、認知症にかかってから15年は過ぎていた祖母が他界したことについて書いた。

「生きたい(9/16日記)」

ずっと話も出来ず、入院し管を通されて、それでも他界するひと月前、一度は危篤状態から持ち直した、つまり生きる事を選んだことを書いた。

「どんなに死にたいと考えても、意識を失いつつ肉体の活動が絶える最後の一瞬、どんな生き物でも、最後に選ぶのはきっと「生きたい」なのだと思います。」

と書いた。



その一方で、こんな記事がある。

いつも手を繋いで過ごした仲良し老夫婦、妻の死と同じ日に夫も亡くなる。
その記事から関連として貼られている同様の記事へのリンク
同じ日に他界した仲良し夫婦、夫の死から3時間後に妻も亡くなる。

祖母は、最後の最後まで、なおも生きる事を選ぼうとした。
一方で、記事の夫婦、後を追った方は、もう生きない事を選んだ。

死はただの自然現象だ。
火はいつか消える。

「生きたい」か、「生きない」か。
ただの自然現象にどう立ち向かうか、その姿勢の違いについて、偉そうに語れる自分ではない。
それを痛感させられた。

2010/01/11

会話「おみせやさんごっこ」

「いらっしゃいませこんにちは。
お飲み物はどれになさいますか?」
「えーと、リンゴジュース」
「あーすいません、リンゴは無いんですよー」
「何と何がありますか?」
「えーとぶどうとぉ、りんごとぉ…」
「りんごあるやないですか」
「…ぶどうとぉ、みかんとぉ、りんごとぉ…」
「えっだからりんごあるやないですか」
「…ぶどうとぉ、みかんとぉ、いちごとぉ、みず
「み、水!?」
「…とぉ、コーヒーとぉ、ブランド
「ブランド!?」

2010/01/03

アバター

を鑑賞。
いくつかレビューして在る文章でも同じ事が書いてあったが、これは3D映画という手段の幕開けを担うと言う意味で、重要で観る価値のあるものだと思った。
従来の意味での映画として、特にストーリーやテーマに関しては、例えばジブリの宮崎監督が怒りそうな浅〜い展開だ。
宮崎監督はナウシカやもののけ姫なんかで、自然と人間との間に発生してしまう争いを軸に置き、しかしそれはどっちが勝ちでどっちが負け、あちらが正しくてこちらが悪なんていう単純な話では無いのだよ、という描き方にとても気を使っていた。ところがアバターではさすがハリウッド的と言うかアメリカ的というか、「はいこっちが勝ち!そっちの負け!あんた悪!」ていう二元論でどーーんと押し通している。白に疑問を持ったらハイあんた黒の側!二者の間を揺れ動く間なんてありゃしない。
でもそれはこの「3D映画」にとって大した意味を持たない。ジャッキーチェンの映画でストーリーにけちをつけないのと同じ。スーパーマリオで「なんで姫はいちいちさらわれてしまうの?」なんてのもネタとしてしか考えない。アバターでは、とにかく目の前に広がる架空の大自然、あり得ない異星人と動物達、そういうのを存分に体験する事、それが全てと言ってもいい。だからアトラクションとして楽しい、という表現にとっても納得する。
…ところが自分はそういうのがあんまり味わえない。実は右目が病気の関係でピントが合わなくなっちゃったからね。見えはするし日常でも大体の遠近感はつかめるけど、こういう3D映画では常に片目がぼやけてるのが仇となって、とくに近くに迫り来るものがあんまりはっきり見えない。なんてこった。しかしそうでなくても、本来目は自分の見たいところに合わせてピントを合わせるのに、3Dでは強制的にカメラのフォーカスに従わされる。だから凄く近くあるものを見る時、自分が注目してるのに映像はぼやけたまま迫ってきてた。こういう違和感って他は誰も気にしないのかな。