2010/03/22

歌詞カード

めい3歳はいまプリキュアに夢中である。
最近新しく始まったハートキャッチ!プリキュアの、エンディングテーマを覚えたくて仕方がない。
すこしだけ覚えた場所をずっと口ずさんでるので、歌詞カードを作ってあげる事にした。

ネットで適当に検索して、あとはワープロにコピペして…のはずが、何とプリンタのインク切れ。
でもこのタイミングは逃したくない。
これは教育のコツの1つらしいのだが、子供が何かを知りたがっている時、親はその資料を素早く提供する事で、知りたい→分かった!という知る喜びが体験でき、自分で物事を調べる習慣に繋がって行くというのだ。

そこで仕方なく手書きで対応する事に。
しかし手書きとなると、歌詞って結構長いもの。
最初と最後がおなじフレーズなので、最後の方は省略してめい3歳に手渡した。

汚い字ではあるが、喜んで歌詞を読んで覚えようとするめい。

ところが、しばらくすると、その歌詞カードを持って来て、こっちに見せてくれた。



「さいごは『ハートキャッチ プリキュア』やからね、かいといてあげた」

手直ししてもらいました。

2010/03/15

『父(習作)』


眼鏡を忘れていたので描き足した所、どうも「役作り」っぽくなってしまい、
現実らしさが失われてしまったので、かけないままにしておくことにした。
でも頭頂部の毛髪を外すと、今度は完全に普通の人になってしまい、架空との接点が
なくなってしまう。難しい所だ。
「おじいちゃんの写真を撮るですぅ」とか言ってカメラを向けられたら、読んでた新聞を
たたみ、眼鏡を取ってこっちを向いたと考えても、さほど不自然とも思えないからいいか。

この表情は我ながら好き。54歳らしい。う〜ん、まあ。

『同僚(習作)』

似顔絵が実在をデフォルメしたものならば、この絵はちょうどその逆、
デフォルメを実在に戻そうとする試みである。
しかしフィクションには原則、もとの現実はない。
結局これは、「フィクションから架空の実在に戻す試み」となる。
この絵はまだまだフィクション寄りであるが、それは単に頭が大きいとか、
そういう造形的な問題を意味しない。
表情や仕草である。
例えば会社員であるならば、同僚に声をかけようと、書類を持ってタイミングを
見計らっている瞬間とか、昼休みに売店でポケットの小銭を探す瞬間とか、
そういう場面を狙って描けたらと思う。それが目標である。


「上司」というタイトルにしかけてたところ、調べたら同僚だった(27歳らしい)。

2010/03/10

そろそろ暴力の定義が見直される頃では

「言葉の暴力」などと言うけれど、もうそんな区別は必要ないのではないか。
「ペンは剣よりも強し」と言うが、剣よりも正しいとは限らない。
ペンだろうが剣だろうが、素手だろうが文字だろうが、そしてたとえ映画だろうが、
理解より勝利を優先させるのは、方法のいかんに関わらず、暴力と呼ぶべきだ。

日本のイルカ漁を一方的に非難する為にドキュメンタリー映画を作った監督の
手段が、まさにそれだ。
この映画について忘れてはならないのは、カメラに写された相手は、巨大な権力を
持った政治家でもなく、銃を持ったテロ集団でもなく、ただ自国で自分たちの生活を営む
庶民にすぎないということだ。
権力や銃などに立ち向かうためのカメラならば、支持されてもおかしくはない。
しかしカメラも持たない人間に一方的に向けられるカメラ、これはカメラこそが
暴力なのだ。

自分の気に入らない相手を、手を換えた暴力で締め上げ、残った手で握手を求める。
今までアメリカがやってきて、そして何度も非難されている手口と何ら変わりない。
むしろ、より知能的になった分、シーシェパードなどよりもはるかにたちが悪い。
圧倒的優位に立ったことを確認して「これは恋文だ」と宣言するのである。

日本は、確かに外国の「自分のNoを言える口」に憧れたかもしれない。
しかしその相手には「相手のYesを聞ける耳」がまだ足りなかったようだ。
大統領も代わり、少しずつ学んではいるはずだが、こんな映画が作られるようでは、
もう少し時間が必要だと思われる。

2010/03/07

景色のない歌

「キズナ」「繋がり」「ケータイ」「思い」「伝えたいから」
そういうキーワードがてんこもりの歌詞ほど、そういう思いを抱いてる
自分しか見えてないってのは何かの皮肉かな。
「言葉にならなくて」なんてのもよくあるキーワードだけど
それじゃある意味歌作りを放棄してるってもんだ。
例えば昔の歌だけど「なごり雪」なんかでは、その言葉にならない思いを
そのとき見える景色に込めて歌っている。
そうして描かれる心情の、なんと胸に響くことか。

2010/03/02

物言い

普段はあまり明瞭に話さず、相手にしょっちゅう「え?」と聞き返させてしまう。
自分ではそのつもりがなくても、不機嫌そうに見られてしまうものの言い方をする。
会話の直後にいつも、自分が話した言葉について後悔する。何が悔しいかって、自分でそれらの事が分かってて、でも分かってるという認識があることで自分を許そうとしている点。