2010/12/25

プレゼント

何日か前になるが、ある日、リビングで使っているiBookのそばに、
折り紙で折った箱が置いてあった。

字が見づらいが、
「なかに
 はい(っ)てる
    したに
     ある
と、書いてある。

あとで聞いた事だが、さすがに箱は難しかったので、
嫁の手を借りたようだ。

ともかく、下にあるものを見る為、
フタを取ってみる。

また折り紙。
いつも使っているから知っているが、これは手紙を書いて、
それをこういう形(きちんと折ると一応星形)になるやつだ。

取り出す。

やはり、なにか書いてある。

折り目を開いて、読んでみる。


『おとうさんへ いつも
 あそんでくれてあり
 がと これから
 もよろし●く めい
 より


       だいす
     き』


…。


実は手紙自体をもらったのは初めてではなくて、
めい4歳はもう知っている人のほぼ全てに手紙を書いており、
自分も既に何枚ももらっている。
そしてその文面はいつもこれで、変わらない。

けれど、こうやって箱に入れられているというだけで、
なぜでしょう。なんて言うか…

…。

ちょっと早めにもらった、今年のクリスマスプレゼントでした。

2010/12/12

ポケる

めい4歳 先日の名言(めい言)

「このポケット、ポケる?」

ポケットが動詞に変わる
歴史的瞬間に立ち会いました。

2010/12/06

海賊王になってからのビジョンはあるのか?

某有名漫画において、主人公の夢は「海賊王に、俺はなる」である。

しかし、なってどうするのかは、今まで自分が読んで来た限り、未だ語られていない。
現代では、地位や名誉の獲得に向かう人に対して、世間に対する何らかのビジョンが求められている。
すなわち、知事になって都道府県をどうしたいのか、首相になって日本をどうしたいのか、
起業する事、社長になる事、あらゆる地位においてその人はその先に何を
見据えているかが重要視されている。
もちろん、ビジョンの方向性で好き嫌いが分かれる事はあるが、少なくとも、
ビジョン自体が見えない人は、かなり嫌われやすい。
ただ首相や社長の地位だけにこだわっている人を想像すれば、このことは簡単に理解できる。
スポーツの世界だと、ただ金メダルや優勝にこだわるだけでも一見悪くないようにも
思えるが、反則もいとわない、マナーに欠けるような選手は、やはり、勝つという結果を
単に自己満足でなく、外に向かってどう還元していくのかというビジョンが足りない場合に
多いに違いないのである。

そこで某漫画の主人公にも、ビジョンを求めてみたい。
海賊王になって、どうしたいのか。
世界を支配下に置きたいなら、目指すのは政治家でいい。
財宝を見つけて、換金して分配するのか。
あらゆる海賊を支配下に置き、海賊行為に秩序をもたらすのか
(ルールに則った海賊行為って、それは物乞いと言う気もするが)。

作品そのものが、今の日本で、いや世界で一二を争う漫画であるとも言えるので、
その作者は「漫画王に、俺はなった」と言っても過言ではないはず。
で、あるなら、漫画の主人公の、海賊王に対するビジョンには、
作者の漫画王である事に対するビジョンが、いくらか反映されるのかも知れない。

2010/12/05

露天と夕暮れ

昼下がり、風呂屋に行き、
露天風呂の中でぼんやりと空を見てた。
快晴で、雲も何にもなくて、
ただ見てる間に、青から淡い緑色、そして黄色オレンジ色へと変わっていくのが分かった。

あっちへ落ちていったらどうなるだろう。
そんな話を見たことがある気もする。星新一か、筒井康隆の短編で。
地面が天井で、空が下で、その事に気づいた自分だけが落ちていく。
今日は雲も何も遮るものがないから、落ちたらあっという間に、地面が遠ざかって、
自分の全方位は何もない空になって、どっちに向かって落ちているのかもわからなくなって。
地面はそのうち地球になって丸く遠ざかって、
でも周囲は宇宙にならず、抜けるような快晴のままオレンジ色を増し、
巨大な夕暮れの中で、米粒より小さくなりながら遠ざかっていく自分を誰かの視点で見送って…

そう言えば、知らない街で迷って戻れなくなる夢を良く見るけど、
調べてみたらそれは人生に対する迷いの現れだとか書いてあった気がする。
この空想もそれと似たようなものか。

2010/11/22

山登り

めい4歳と山登りした。
頂上で食べたサンドイッチとおにぎりのおいしさは、一生の財産だし、
めい4歳にもそうであって欲しい。
思い出せなくてもいい。
のぼりは険しかった。
サンドイッチはおいしかった。
下りの経路は長く、フラフラの足で半べそかいてたけど、
それでも歌を歌ったりしながらで、何とか自分の足で降りた。
そう言う経験が、今後の考え方や判断に、
少しでも良い影響を与えてくれたらと願うしかない。

2010/11/16

欠点と向き合う

自分の欠点への対処方法には、大きく分けて3段階ある。
1つは、それを他人から指摘されたとき、普通に怒る人。
でもこれだと心の狭い人と思われるから、何とかしようと考える。
そこで次の段階が生まれる。
すなわち、「笑われてもいい欠点」を見いだし、それを外部に向ける事で、
本当に笑われたくない部分をガードするという手段。
そして最終段階としては、本当に何を笑われても怒らないという段階。

第二の段階のまま、少し勘違いをしてしまう場合もある。
そう言う人は、人を傷つけて咎められても、
「気にしなけりゃいいのに」と言う。
まるで自分が何を言われても傷つかないかのように。
大人になれば、体面があるから、確かに簡単に怒りはしないだろう。
けれど傷つく事はあるだろう。
本当に最終段階に到達できている人は、その違いを理解しているから、
それでも過ちを犯す事はあるから、もし自分の発言で誰かが傷ついたなら、
その事に関しては素直に謝れるはず。
でなければ、単に人の言葉が理解できていない、本当に何も分からない人だ。

2010/11/11

数独

数独という、良く知られたパズルが在る。

数字を使うと言っても、計算は全く使わず、
簡単なルールさえ覚えれば子供でもできる。

例えば次のような子供用の問題がある。


これをめい4歳に見せて、教えたり、一緒に考えたりして
楽しみながら解いていくと、完全にルールを理解できたわけでは
ないものの、全ての空白を正しく埋める事ができた。
(本来は9×9マス、子供用は4×4マス)


問題は、この後だった。
うちのめい4歳は、ある部分父親である自分と対等だと思っている。
まあ、そうなるように育てて来たからだが。

次の日、食卓にこんな紙が置いてあった。

文章は、次のように記されている。
(下中央から右へ向かって)
『おとうさんがして』
(Uの字型に)
『めいちゃんがおしえてあげるからね』

解けるかああああああ!!!!!!!!

ちなみに、○はゼロではない。
最初に自分が教えた時、「ここから解いていくといいよ」と
マス目に丸で印をつけていた。
それを真似された。

いくつかは数字を入れてみたものの、当然途中で破綻したわけで、
マス目の数が決まっている事を教え、改めて問題を作り直す事に。
作り直すと言っても、結局二人で解いていくのと変わりないわけだけども。
そしてようやく解答。

『よくできました』
めい4歳の似顔絵
花丸もらいました。

2010/11/08

養命酒

10月初め頃に風邪を引いて、養命酒飲んでたらなんとか治った。
最近ひと瓶飲み終えてしばらくしたら、またのどが痛くて、風邪引きかけの症状。
養命酒をまた買って飲んだら、回復した。

高校の頃からあだ名が「おやじ」「じじい」「先生」とかそういう系統だったから、
年齢がようやくイメージに追いついて来た感じ。
10代の頃から、過ごして来たのは30代だったんだなあ…

2010/10/26

長生き

ちょっと前のジャンプで、幼児が老人に向かって
「おじいちゃんたち長生きしてね」みたいなことを言ったら
「わしらはもう長生きしている。君らこそ、果たして長生きできるかな…?」
みたいなやりとりがあって、妙に納得させられたことが未だに頭に残っている。

ほんとにできるかなあ、長生き。

2010/10/14

何にもなかった

そういえば、聴いてたのはいつだったか。
学校のバスの帰り、電車の帰り。半分寝ながらとか、ジャンプ読みながら、あるいは、暮れていく窓の外を見ながらだった。何にもしてないときだった。

思い出したくないようなことはもちろん、逆に楽しい事でさえ思い出すのが嫌になるときでも、何にもしてなかったときの、聴いてた音楽とともにほんのり浮かんで来る思い出は、心に波風を立てず、ただ静かに思い出させてくれる。
何もなかったからこそ、思い出すと、心が落ち着く。
そういうことなのか。何もしてない事の大切さって。

2010/10/13

音楽って凄いと感じる

思い返せば、自分に青春と呼ばれる時代などなく、
そもそもそう呼ばれそうな年代のころ既に、その言葉に距離感を持っていたし、
過ごしたあの時期をもしも無理にでもそう呼ぶならば、
痛々しくて、惨めで、後悔するような思い出したくない事ばかりで、
楽しかったはずのことも、全部その痛々しさで打ち消され、心的外傷を負ったような
呻き声でおつりを払わされる、青春とは牢獄の中から眺める桜と青空の事なのかと、
また、中身のない問題に責められてしまう。

それなのに、久々にSimon & Garfunkelの「America」が部屋に流れ出す時、
思い出はなぜかやさしい感じに色褪せてて、まるで自分の過ごしたあの罪に満ちた時期を、
青春と呼んで肯定しても、許してもらえるような錯覚に陥る。
Simon & Garfunkelの曲だけは、なぜか匂いさえ感じる。懐かしい匂いが鼻をくすぐる。

2010/10/09

旅探し

プロフィール欄で「(自分とは)意志を持ったドーナツの穴」などと書いているが、これは以前に幾つかかじった哲学的な情報により、現代では、全ての外的要因を取り去った後に残る、根源的な、完全に主体的な自分というものはなくて、ある社会的集団のなかに生まれ、ある社会的集団における情報との関係でしか「自分」なるものは成立しない、そういう考え方が主流であるのだと知ったことによるもの。
もちろん、もっと昔はそうではなくて、何者からも独立した完全なる個体にあこがれていた。
けれどその実態は「これではない」の積み重ね、結局、他者との関係性を取り払った中に自分を探そうとした為に、ますます自分が失われていくという、ありがちな失敗に陥った。
そんなときに都合良く「自分などない」という思想に出会ったものだから、こんどはその思想に安心を求め、それまでの自分さえも否定し、更に自分なるものは失われていった。
確かに、どこかに根源的自分を求め、探し続けるという旅の目的は正解ではないのだろう。
けれど、見つからないものを探すのは間違った事なのだろうか。
自分探しの旅を続けて、その先に自分は見つからなかったけど、旅を続けたのは確かに自分という存在だった。旅の軌跡が、ゆえにこれから向かう旅の行く先が、自分だった。
自分なるものを手に入れた多くの人の中にも、そういう人はいるはずだ。
自分は今まで何も手に入れてなかったし、どこにも行ってなかった。
唯一救われたのは、結婚して子供が出来て、「家族の父親である自分」を授かったことだ。
まあ、それでお腹がふくれるわけでもなく、また、いつまでも持っていられるものでもない。
しかしながら、おかげさまで、後の事は分からないけど、今だけは、幸せですと言わせてもらえる。

2010/09/30

スマイルは今も0円なのか

有料で「スマイル プレミアム」とか出たらどんなんだろ

今日考えてるのはこんなレベル

民主党が選挙で勝ったのは、確か当時の調査でも出ていたはずだけど、
決して国民の積極的な選択ではなかった。
だから、ある程度のことは覚悟した上での国民の判断だったと言える。
けれど、ここまでの事態になるとは誰も予想していなかった。
少し前になるが、こんな記事がある。
大学で起きた衝撃的な一コマ

実話ならばという前提にはなってしまうが、専門家ですら過ちと
認めてしまうほどの選択を背負って、今の日本は動いている。
上記リンクの話は、まだ口蹄疫事件の時でのことだ。
あの時点で、(真偽の程はさておき)そんな話が持ち上がったくらいなのに、
今の政権に対する評価の悪さは、口蹄疫の比ではない。

次の選挙は完全に自民党が返り咲くかと。
てかすでに返り咲き始めてるけど。

あまりに今の流れが悪すぎて、
「自民党の方がましだった」どころか
「実は自民党もそんなに悪くなかったのかも」
「いやむしろ自民党って悪かったどころかあれで結構よかったのかも」
と、政権交代直前よりも自民党の評価が上がっている風潮さえ見られる。
自民党自体は別になんにもしてないのに、民主党が横から政権を奪い、
民主党によって相対的に自民党の評価を上げ、そして政権を返還する流れ。
民主党はよく、相手に言ったことが自分たちに跳ね返ってくる
ブーメラン党と言われてたけど、これじゃブーメランどころじゃない。
傷口の悪いものを自らに取り込んで滅していく、自民党にとっての
白血球みたいな党なのかも知れない。

2010/09/27

豊郷小学校

同じ方向へ出かける用事があったので、豊郷小学校に行ってみた。

ここの旧校舎はヴォーリズという建築家によるもので、
歴史的価値の高い建築として知られている。

しかし最近では、また別の面で非常に有名になっている。

その筋の人で、このことを知らない人はいない。
アニメ「けいおん!」の舞台のモデルとしてだ。

かくいう自分も「けいおん!」は評価している。
娘であるめい4歳が「プリキュア」を見ると暴れまわって仕方が無いので、
少しでも影響を緩和させるために見せてみたところ、すっかり気に入った。
緩和させるという目的は…なんともいえないが。

絵柄やセリフまわしこそ、いわゆる典型的なアニオタ向けであるものの、
子供に見せる分には意外なほど悪くない。
その理由は
・エロや暴力など刺激的表現は皆無に等しい
・しょうもない恋愛観やら人生訓やらを押し付けるようなこともない
・タイアップ攻撃でおもちゃをねだられる心配もない
そんなわけで、けっこう安心して子供に見せておけるのだ。

話がそれたが、そんなわけで、めい4歳と、その豊郷小学校を訪れてみた。

結果は、
ある程度覚悟していたものの、やっぱり結構なダメージを負った。

まずいきなり駐車場で最初のダメージ。めいが気づく。
「わーあの車、女の子の絵が書いてあるー」
いわゆる痛車が並んでいた。
痛車-Wikipedia
「そやね…」なんと返事していいかわからない。

コスプレをしている人たちも、結構いた。
アニメの話では、主役を始めおよそ5人の女子高生たちが中心人物である。
その5人組の衣装や髪型を真似たグループが、4組はいただろうか。
ただし、うち半分のグループは男だった……。
「あー、ゆいちゃんとみおちゃんと(キャラクターの名前)」
「うん、でもあれ男の人やね…」
なんだかとても辛い気持ちになって説明した。
髪型と、アニメに合わせた制服でコスプレは成り立つこともあってか、
遠くから見る限りでは、ちゃんとしてれば男でも少々それっぽく見えるのが
なんだか余計悔しかった。 
クィア理論てのがつまりはこういうことなんだ」
などと難しい言葉を持ち出して、自分を無理矢理納得させた。

郷に入っては郷に従え。豊郷小学校に入ってはけいおん!ファンに従えだ。
しかしながら、校舎は最初にも触れたとおり、本来は歴史的建造物としての価値が
認められているものだ。
だから、教室の一部は校舎に関する資料を集めた展示室もある。
そしてまた、別の教室は近隣の子供のための施設として使われてたりもする。
訪れたときには、どこかの中学か高校生くらいの団体が教室を借りて
ブラスバンドの練習をしていた。

そんなわけで、豊郷小学校旧校舎という一軒の建物に、
・アニメファンの聖地
・歴史的建造物としての観光名所
・近隣の住民のための施設
という3つの世界が入り交じっていて、当然訪れる客も、ほとんどがアニメファンではあるものの、そのなかにおじいちゃんおばあちゃんも混じっており、更にはアニメファンも、ウチのような子連れも結構多く、年齢層というか人種も幅広い。
だから全体として、なんだか異様な印象を受けた。
全員が、お互いに対して、場違いじゃね?(他人が、あるいは自分が)
と感じているようにも見えた。

とは言え、建物にはなんの罪もない。
さすが、一時は取り壊されかけたのを全力で止められただけはある。
校舎自体、アニメと関係なくとも非常に魅力的だった。温かみのある、こんなところで勉強できた小学生は幸せだったな、と思える作りだった。

アニメの方は、もう終了みたいなので、また徐々に、本来の歴史的建造物の顔にもどっていくのかも知れない。
しかし、あのカオスな雰囲気、ワケの分からない辛さ、申し訳なさ、悔しさがごっちゃになったような気持ちも、一度だけなら味わっておくのも、そんなに悪くはないかもしれない…かもしれない…かも…と思った。

これで、東京に行っても、一度は秋葉原に行ってみようなんて
危険な好奇心は起こさずにすむ。

2010/09/19

とても面白い形の雲があった。
誰かに教えようと思ったけど、もう一度見るときには、
形を変えている。

世の中の、本当に素晴らしいもの、美しいものは、
得てしてそういうことがある。

一方で、全く変わらない山や大地を、
素晴らしい、美しいと感じることもある。


人はどうなんでしょう。
雲じゃないから、そんなに簡単には変われないし、
山じゃないから、そんなにずっと変わらずにもいられない。

だから醜く感じてしまうこともあるのでしょうか。

けれど、雲みたいには翻弄されず、
大地よりは自由に生きられる。

だから、もっとちゃんと生きたいと思うのでしょうか。

2010/09/09

クロマキー

ラ王騒ぎの絡みで知った動画だけど

技術や仕組みは知ってても、こうして見せられると改めてすごいと思う。

2010/08/27

少し立ち直った

自分の努力を振り返る。
それは本当に、客観的に見ても努力と呼べるものだったか。
最後の追い込みだけを記憶で誇張して「あんなにがんばったのに」と錯覚していないか。

ラストスパート「だけ」を頑張ると、リスクが大きい。
結果が出たなら、確かに儲け物ではあるだろう。
だが長く努力した分よりも多くが得られるという事はない。
そして当然ながら、ラストスパートのみの努力は、長い期間の努力よりも結果が出にくい。
それでいて、失敗したときのダメージは、まるで長く努力していたかのようにこうむる。
つまりはハイリスク・スタンダードリターンだ。
自分はそれを、心のどこかで狙ってなかったか。
断固としては、否定できない自分がいる。

2010/08/22

うちひしがれそうです

3度目の試験が終わった。
学校から出ていた解答速報によるところ、不合格確定。

ここで告白しておかないと、どんどんどこかに落ちていきそうな気がした。
自分は普段は口数が少ない。
それは馬鹿なのがばれたら恥ずかしいからだ。
だからこそ、知ってる事とか、バカと思われてもいいような時とかは
やたらとはしゃぐし、口数も多い。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥というが、
聞いたり話した事で恥をかいた記憶がずっと頭から離れない。
だから、バカと思われたらやだなと思うときは極端に喋らない。
でも、馬鹿である事は変わらない。
隠して賢そうに見せる事はできても、賢くはなれない。
馬鹿で、馬鹿である事を黙って隠す事に必死で、
賢くなる努力を怠っている自分がいる。
それだけは変わらない。
いくら賢そうに見える言葉や格言を身にまとっても、
身に染みてはいない。
そんな振る舞いをずっと続けていたものだから、
何を喋っていいのかもわからなくなってしまったんだ。

2010/08/17

気がつくと胸に注目

あの水着の胸パッドはどれくらいの厚さなんだろうと考えて、
ついきょろきょろしていた自分がいやだ。
ようするに、見るからにカツラの人の頭に注目するのと同じ感覚。
だからってスケベ心に対するなんの弁護にもならないが。

2010/08/11

今思い出しても恥ずかしいこと

白浜へ家族3人で旅行へ行ったときのことだった
ホテルのレストランで夕食
予約制で客はカウンターに並び、コックさんがその場で調理する形式だった
調理が始まるかというタイミングでコックさんがおもむろに挨拶
確か「おはよう!」だったか なんて言ったか良く覚えてない
(仮におはようだったらこの時点で気づくべき)
「おはようございます!」と返す自分
他の客は黙っていた

後で嫁に言われてはじめて知った
あれはそのとき入ってきた従業員に向けてのあいさつだったと
どうりで皆黙ってたわけだ 嫁も含めてな
だいたいあんなタイミングで客に挨拶とかしないよな

これを思い出すとき
不謹慎を承知の上で言いたくなる

氏ね自分

2010/08/09

パソコンないとすることがないようで

でも思ったほどには、仕方ないから代わりのことをやろうという気は起こらないもんだ。

2010/08/03

お手紙

めい4歳は、よくお手紙を書く。
おそらくは、以前観た「アルプスの少女ハイジ」の影響と思われる。
「いつもあそんでくれてありがとう これからもよろしくね」
大体こんな感じ、「〇〇してくれて」の部分以外は基本的に変わらない。
家族や親類はほとんどの人がもらっている。
友達や知り合いにも渡している。
体操クラブの先生にも渡した。
他愛のないものながら、やっぱり一応は喜ばれるようだ。

どうやら、先日死んだメスカブトムシの「ちびちゃん」をお墓に埋めるときにも、
手紙を書いて、一緒に入れてあげたらしい。
正確な内容は知らないが
「おうちにきてくれてありがとう げんきでね」
こんな感じだったらしい。

短い間だったが、ちびちゃんは幸せだったと思いたい。

2010/07/29

トイストーリー3で隣の男の人とカップルみたいな状態になった

一人で観に行ったんですけども
□=空席
■=埋まっている席
■■■■□■■□■■■■
中央の、空席に挟まれた2席のうち片方が自分
もう片方が知らない男の人ってなってて
なんかすごく気まずかったです
受付のお姉さん覚えてろよ…

映画観てるうちに嫁と間違えて話しかけたらどうしようとか
心配してたけど本編始まったら面白すぎて夢中だったので問題なし

2010/07/28

雌カブトムシのちびちゃんが雄に刺し殺された

ひと月ほど前からカブトムシを飼い始めていた。
2匹(つがい)で、めいによって、雄は『ちゃいろさん』
雌は『ちびちゃん』と名付けられた。

一般的なカブトムシとは、ちょっと角の形が違う。

今調べてみたが、たぶんアトラスオオカブトという種類のもので違いない。
さらにほかのページもあたってみると、こんなのがヒット。

『かなり獰猛です』
と書いてある。

あっちゃー。それでか。

今朝のことでした。
雌のちびちゃんが、刺殺体で見つかったのは。
監視していないと、メスを激しく攻撃して 最悪、死亡させる事があるので注意が必要です。
その最悪の事態でした。

第一発見者はめい4歳。
「ちびちゃんがうごかないよー」と、嫁に報告、
嫁が確認したところ、動かなくなったちびちゃんの背中の左羽根中央にブッスリと角で突き刺した痕跡が。

こんなやられかた
ジャンプの漫画でしか見たことありません

ごめんなさいちびちゃん。
もうちょっとちゃいろさんのことをよく調べていたら…

明日、庭にお墓を作って埋めてあげるそうです。




浅いとコロンが掘り返す恐れがあるので注意してね

2010/07/15

2010/07/12

結局再修理

三度目の梱包を済ませて、また古いPCに。
ほんとに遅すぎて、やりたい作業ができないんですこれ…メモリ256MBて。

mixiでマイミク登録している同窓生の人たちの動きがない。
mixi自体が飽きられたなこれ。さっさとtwitterに移行しているか、ほんとに何もしてないかだ。

2010/07/10

長期保証の落とし穴?

ひと月ほど前、使っているiMacが壊れた。
症状は画像の乱れ。ハードウェア的な故障らしい。

購入したソフマップが当時用意していた5年保証プランの期限切れ寸前だったため、
なんとか無料で修理可能。
2週間ほどして、返って来た。
ロジックボードを交換したとのこと。なんだか大掛かりだ。
有料だったら数万円は確実にかかっていた。

で、安心してまた使い始めたわけだが、数日後、また画像が乱れる。
んでソフマップに電話。
5年保証プランの期限は切れていたが(ホントにぎりぎりでした)、当然というか何と言うか、送り返して無償で修理してもらうことに。

そしてまた1週間以上が過ぎた本日、iMac帰還。
再度のロジックボード交換に加えて、こんどは電源ユニットまで交換されてるっぽい。
HDは交換も初期化もされていないが、おまえほとんど別人だよ。
やれやれ、と、電源を入れる。


画面にノイズ。
直ってねえ…


調べてみると、このiMacを買った時期の機種は、不具合が多く出ていたらしく、
アップルも一部の機種は無償修理に応じていたようだ。(今ではそのサービスも終了している)
このiMac自体は、無償修理の対象となる製品シリアルナンバーとはぎりぎりで一致しないものの、
似たような原因から不具合が出ていると見てよいだろう。

ソフマップの修理サービスさんが、単純なヘマを2度重ねたとは思わない。
しかし、保証の為のお金を払い、実際に保証にかかる修理が発生して、その修理に失敗されている以上、
……正直、どうしたものか。

パソコンはだいたい5年くらいで買い替えが必要と言われる。
このiMacも、買ってからちょうど5年、ゆえにソフマップの保証が切れかけていた。
で、これは素人の考えだと思うが、iMacは次々とモデルチェンジされてるから、
今修理で交換してもらった部品だって、その最新のものと言うわけにはいかない。
5年前とはいかないまでも、それに近い古い部品で交換されているのかもしれない。

どうしよ。
明日相談するか。
やれやれ。

2010/07/08

向かい風の枯れ木とかけまして

初心者スキーヤーと解きます
その心は
曲がれず、あとは倒れるだけでございます

樹齢の長い大樹は、ただ単に硬いから立派になったのではない。
向かい風の中でしなやかに枝をなびかせ、ときに折れてしまったら、
また別な方向に枝を伸ばしていくことで、大きくなるのである。
枯れてしまった木は、寿命に関わらず、硬くもろく折れてしまうのである。
初心者スキーヤーは、周りを冷静に見回すことができなくなるから、
曲がれず、あとは先の障害に激突するか、自ら倒れることでしか止まれないのである。

2010/07/05

プリキュアよりけいおんの方が子供には安全?

昨年頃から、ちょっと大きめのアニメファンの間で大人気の「けいおん!」。
近頃、それをふとした事から見るようになって、思った。

娘に見せておくなら、こっちのほうがいい…。

「けいおん」には、暴力や性的表現といったものが、まずない。
というか、恋愛すらない。教育テレビでやってても違和感ない。
プリキュアは、とりあえず基本が蹴り合い殴りあい。
そしてタイアップ商品の波状攻撃にさらされる。
けいおんを見て同モデルの楽器をそろえるのは大人だけ。

けいおんには、悪影響の心配がない一方で、話自体に大したテーマ性もない。
なにか人生の大事なことを伝えようなんていう姿勢が見られない。
中心メンバーは仲良しだが、それを武器に他人と張り合うなんてことはしない。
けれど、漫画やアニメは本来、別にそれでいい。
たまに、重厚な世界観や深くてよく練られたテーマの作品なるものがあるが、
なにもそれがなきゃだめってことではない。
「漫画はおやつです」とは、神様・手塚治虫氏の言葉。
それが全ての漫画アニメに当てはまる真理、結論というわけではないが、
つまらない人生観、しょぼい哲学で自らを価値ありそうに飾りたてる作品は、ようするに
「カルシウム入り」と書かれたおやつのようなものだ。
とにかく殴り合いで解決し、おもちゃを売るために続けているようなプリキュアみたいな
ものに、「夢を叶えよう!」なんて語らせることは、むしろ有害ですらある。

正直、娘にプリキュアを見せたことを後悔している。
でもいまさら、なかった事にはできない。
だからせめて、代わりの似たようなアニメに興味をむけさせることができたら、
プリキュアへの傾倒を和らげることができるんじゃないかと思った。
(ディズニーはジャンル的に別すぎる)
けいおんはその役目としてかなり適切に感じた。
仮に試みが失敗しても、これ以上別のものを見せたらそれこそアニオタの方へ
いっちゃうので、その場合はあきらめることにする。

2010/06/26

遠くから帰れない夢

なんだか、そういう夢ばかり見る。もしくは、覚えている。


知らない街、ときには外国みたいな所で歩いてたり、車で走ってたり、
電車に乗ったり。


で、どこかに帰ろうとしている。


でも、いつも帰れないまま終わる。
道を間違えたり、電車を間違えたり、建物の中に入ったり、
もしかすると、迷ってること自体を楽しんでいる部分もあるかも。
それほど焦ってもいないし。


ちょっとググってみた限りでは、「本来の自分」とか
「しなければいけないこと」のようなキーワードを見かけた。


それは思い当たる。
というか、仕事ってそんなもん、のはずだけど…
まだ、どこかで割り切れてないのだろうか。


そういえば、漫画家になりたいとか考えてたっけ…
そして今も、たまに絵も描くし。


もう少し、趣味を考えてみるか。
いやいや、遊びすぎだろ自分。
にしても、修理して直ったはずの画面の乱れが再発した。
どうしてくれる。

2010/06/25

人と人生

一人の人間に1つの人生。

そういうもんだと以前は考えてたはずだけど、

結婚してから、いや、嫁と付合いだした頃だ、

あのころから、その概念が自分の中では崩れて来ていたように思う。

人生に確固たる予定があったわけでもないけど、

少なくとも、結婚して子供も居る今の生活は、人生の見通しにまったくなかった。

付合いだした頃から、自分の見通しが大きくねじ曲がっていく感じがした。

それは初めて、自分の人生に別の人が干渉する感覚だった。

自分の人生が自分の物でありながら、同時に他人の物でもある。

人と人生は、多対多の関係にあるように思えた。

今のネットの世界では、クラウドコンピューティングという仕組みが大きく取り上げられて来ている。

例えばヤフーやグーグルのサービスを利用する時、全ての人間が、同じ1つのサーバーを見ているわけではない。

多数のサーバーで同じサービスを提供し、利用者はその内のどれかにアクセスし、同じものを受け取る。

ちょうど、本店のないチェーン店のような物だ。

我々は、雲(クラウド)のようなサーバー群にアクセスを求めて利用する事になる。

自分が感じた人生の感覚も、それに近い。

数多の人生が、まるで人から離れてそれだけで独立し、流れていっているようだ。

一人の人間は幾つもの人生に関わり、1つの人生に何人もの人間が干渉していく。

いつの間にか、そういう見方をするようになっていた。

2010/06/24

足の指

自分だけだと思うけど、
机の下とか、足元の見えない状況で、裸足のとき、
例えば右側の足の、薬指と小指の谷間に、
左足の小指を入れてみると、
なんだか、右側の足の小指の外に、もう一本指がありそうな
感覚がしてしまう。

2010/06/14

iPad

将来には、携帯電話みたいに、

「うわー初期のiPadってこんなに分厚くて重かったのかー」

ってなるときがくるのかな。

2010/06/07

修理

使ってるiMacが修理に。
しばらくは予備のWin機(とても古い)で我慢。
ソフマップの5年間保証に入ってて、その保証期限まであと一月を切っていた。

iMac、偉いっちゃあ偉い。

2010/05/31

努力も素質

中学の頃に漠然とそんなことを考えてたけど、
だいたいそういうようなことが哲学的にちゃんと論じられてたのね。
勉強になるぜハーバード白熱教室。
でももちろん、自分がそう考えてたのは哲学的見解ではなく、
(能力主義への反論や完全平等の議論を踏まえたとしても)単なる嫉妬によるものだけど。

2010/05/15

「最低でも金」

という文章だが、発言した人が政治に関わって来たというだけで

「金」の字が「かね」と読むように見えて来るから不思議だ。

2010/05/08

今になって勝間氏vsひろゆき氏のニュースの話題

http://brd.dailynews.yahoo.co.jp/SIG=11rmp3ji6/EXP=1273837092/*http%3A//www.asks.jp/users/hiro/68256.html
(ひろゆき氏ブログ)

「ネットの書き込みは実名にすべき」という勝間氏と
「強要しても意味ない、現状と同様そう思う人だけやってればいい」
というひろゆき氏の対談だったっぽい

オール実名投稿にして幸せになれるかどうかはわからんが
実際やってみたら、ネットの価値観とかガラッとかわりそうだ。
今政治では自民から民主へガラッと変わって大変な事になってるが
例え今後また自民が与党に戻るにしても、変わらないままが良かったとまでは
思わん。旅行から帰って来て「やっぱり家が一番」というのは
旅行に行かなきゃ良かったという意味ではない。

ところで、冒頭に上げたひろゆき氏のブログに書いてる、幸福論について。
「何を幸せと感じるかは人それぞれだから、金の有無だけで
他人の幸不幸を決めるのはおかしい」
という持論だ。

話は全然違うけど、地球は丸いが、自分が立ってる地面は平らだ。
同じモノのはずなのに、例えばサッカーのグラウンドの白線を引くときに
「これは地球の半径を持った円弧だ」と考える人はいないだろう。
でもこの範囲が広がって、道路だとか、航空経路だとかを考える規模に
なって来ると、いよいよ地球の半径を持った「曲がった地面」となってくる。
ようするに、視野によって、同じ物でもどうとらえるべきかが違ってくるのね。
山や谷など起伏もあれど、全体としては球というわけだ。

幸せにも同じ事が言えると思う。
個人的に何を幸せかと考えるのと、ある集団全体として何を幸せと捉えるかは、
同じ幸せでも、視野が違うから、違って来る。
個人、家族、町内、都市、国家、世界、それぞれのスケールによって、
平面からだんだんと球面へ変わるような、幸せの持ちようの変化が生ずる。

ひろゆき氏の考える幸せも、あくまでミクロ視点においての正しい幸福論であり、
マクロな視点での幸せを考える場合においてまでも、当てはまるとは言えない。

全体の幸せを考える場合の1つの方法として、「最大多数の最大幸福」がある。
何が幸せかは知らんが、最も多くの人が、最も幸せと感じることがあったら、
それを目指すべきとするものだ。功利主義と言うのかな。

そういう、大規模集団を視野としての「お金=幸福」は、妥当だと思う。
全員ではないだろうけども、お金持ちっていうか、経済的に景気を良く
することが、例えば日本は幸せに近づくんじゃねえの?という意見に、
幾ら何でも、日本人の過半数が反対するとは考えにくい。

「ネットを実名で」という考え方も、「最大多数の最大幸福」的には、もしか
すると効果があるのかも知れない。その意味では、勝間氏の考えには納得する。

ただし、この「最大多数の最大幸福」もまた、全てにおいて絶対ではない。
代表的なのが、命に関わる場合で、要するに「一人が死ねば皆が助かる
場合、そいつはさっさと殺すべきか」という問題だ。

これに対し、
「そもそも、一人一人の幸せを守る為にどうすべきかという問題から出発して、
最大多数の最大幸福が考えだされたのだから、そのために、全体が個人の
幸福を勝手に奪うような事はあってはならない」と言われる。

勝間氏とひろゆき氏の対談にも、これと良く似た問題が原因で、
すれ違いが起きたのではないかと思う。

すなわち、勝間氏は社会全体の幸福を考えていて、それ自体は正しいかも
しれないが、その為に、結果的にはひろゆき氏という個人の考える幸福を
犠牲にしなさいと、ひろゆき氏にせまってしまった。
建物に例えれば、あなたの持っているビルはとても大きいが、もっと沢山の
人が快適に済めるようにリフォームしなさいと、建て直しをせまった。
少なくとも、ひろゆき氏には、そう写った。
と、見てよいのではないか。

そりゃあ、知らんがな、お前んちでやれ、ってなる。
ただし、もしそういうリフォームがなされたら、快適になるかも、
という可能性までは否定しない。
それでもやっぱり、そういうリフォームを求めるなら、いくら巨大なビルの
オーナーであっても、ひろゆき氏という個人ではなく、せめて全体を扱う専門
組織である政府を相手にすべきであろう。

…というところまで、「ハーバード白熱教室」の講義を聴いた内容に基づいて
考えてみた。続きはまた番組を見て考える。

2010/05/05

聞く教育

今の教育方針は、ゆとり教育からの転換に流れを変え始めている。
ゆとり教育で得られたものよりも、失った物の方が多かったという結論だと言える。

「やはり教育の本質は詰め込みだ」 という声も少し耳にする。
どの程度真剣な声なのかは分からないが、少し気にかかる。

ゆとりを反省するのは仕方ないにしても、
過去の方針に単に立ち返るだけではおかしい。
ゆとり以前の教育に反省点があったからこそ、ゆとり教育が始まったのだ。
確かに、詰め込み、丸暗記、お手本教育といった方法は、考える力の
基盤を固める方法という意味では有効であり、ゆとりになってその大事な
基盤が失われてしまったという見解は確かだと思う。
しかし、詰め込みだけでは、得た基盤から新たな自分の意見を導きだす力が育たない。
自分は何を詰め込まれたのか、それを考える時間すら奪われて詰め込みに追われた。
これでは詰め込んだ物に意味がなくなる。だから、もう少し自分を見直す時間を与えよう。

そういった反省点から、ゆとり教育が始まったはずだ。
だから、単に詰め込みやお手本教育方針に立ち戻るだけでは、日本の教育は前進しない。
ゆとり教育は、本当は自分の意見を考える時間を与えたかったのだ。
だがその実態は、多くがただの放置放任主義になってしまった。

しかし、過去に比べて、少しは意見を述べられる人間が増えたのではないだろうか。
かつて日本人はイエスマンなどと自らを揶揄して来た。
いまもそれは変わらないと見る向きもあるだろうが、変わる所では変わっていると見える。

この見方には、派遣やサービス残業の事例を用いて、容易に反論を考えられると思う。
でも本当にそうだろうか。
派遣やサービス残業といった実態には、嫌でも嫌とは言えない権力が絡んでいる。
言いたいことがあったら言えと常日頃から思っている、
支配者立場の人も居るかも知れない。
だが、それは、下の人間の発言する機会を政治的に支配しようとする意志の現れでもある。
本当に、人の意見を聞きたかったら、言えと言わず、ただ聞けばいいのである。

実は、自分が提案したい次の教育方針のヒントも、ここにある。
それがタイトルにも上げた「聞く教育」だ。
立場さえ平等かそれ以上なら、日本人でも言いたいことは幾らでも言う。
だからネットでは、良い発言もそうでないものも、無数に飛び交っている。
だが悲しいかな、言う力を身につけた人は多いが、聞く力を身につけている人は少ない。
相手の意見を誤解し、あるいは遮って、自己主張に夢中になる。
ただひと言「それはこういうことですか」と相手の意見を確かめるだけでも、
話の進み具合が全然違って来るはずなのに。

これからの教育では、「聞く力」を重視してみてはどうか。
こちらの意見がどう聞こえたか、確かめてみる。
あるいは、相手の意見を自分がどう理解したか、相手に聞いて確かめてみる。
そういう習慣を大事にして、身につけて行くのだ。
「身につけさせる」ではない。
「聞く力」は、教育者側にも求められることになる。
だからもちろん「言って聞かせる」ではない。
つまり、詰め込みとゆとり、双方がはらんでいた「一方的である」という反省点を踏まえることにもなるのだ。
また、これも非常に大事だが、「ただ聞くだけ」では、聞く力とは言えない。
「どうして分からないの?」「何がわからないの?」
これらの質問が相手を責めるような意味合いで使われるように、
聞く力とは、考える作業を一方的に相手に求めるものではない。
「適切な質問を、聞く立場が考える力」でもあるのだ。
聞く力と言う力(=問うべき事があれば、新たにそれを「聞く」力)、
両輪のバランスこそが重要である。

次世代の教育方針には、教育者自身もその方針の被支配者的立場に身を置いて考える、
そのような「聞く教育」を求めてみてはどうか。

2010/05/02

今年の園芸

とりあえず半分

エコポイントが怪しい

エコポイントを申請したのが1月の終わり。

3ヶ月経っても、一向に音沙汰がなかったので、ネットで確認。


電話番号と購入店の電話番号を入れると、

「処理済み、メールかはがきが送付されました」の旨の通知が。


けど、そんな覚えないので、今度は電話で問い合わせ。


「あー、処理は出来ているんですけど、これからはがきを送る準備にかかっております」

???


2〜3日後、はがきが来た。


あやしい
なんてあやしいタイミング

2010/04/26

エコ

ラジオでいつもかかるCMがある。
どこぞの国では、おばあちゃんが外でヤカンの周囲に反射板を並べ、
太陽光でお湯を沸かす。
んで「とっくにエコを楽しんでる」と締めくくる。


おばあちゃんも、電気を充分に使えたら、普通にそっち使うでしょ。

きっと作る側も、わかってて作ってる。イメージイメージ。

2010/04/18

何年かに一度の何か

今年の気候は何十年かに一度らしいけど、

たとえば「30年に一度」の天気が30種類あったら、毎年特別な天気になる。

しかも、気候を判断する基準となる期間は、1年とは限らない。

四季を基準にすれば年に4回、異常気象に遭遇する可能性、

ひと月を基準にすれば年に12回、暦だの黄砂や梅雨のようなものまで含めて、

更にそれらは重複しても問題ない(月単位で見たり暦で見たり)だろうから、

異常気象を判断する基準の期間は、けっこうな数になる。


そりゃ異常気象ばっかり出会うわけだ


スポーツイベントにもそういうからくりの物があったりするそうな

2010/04/14

しりとり

紙になんか書いてあった。



見にくいと思うが上から解説。

『 き い 』
多分「木」のことだと思われる。
まあこの年齢なら仕方ない。許容範囲。

『 い か 』
『 か に 』
『 に く 』

この辺は順当だ。
問題は残りの二つ。

『 く ら く な る 』

文章来ました

そして最後に

『 る い は と も お 』

ことわざ出ました


ちなみに普段でも、しりとり遊びをすると
「め…めかぶ
「ぶ…ぶり
などやたらと渋い言葉がよく並びます

2010/04/13

井の中の蛙

井の中の蛙
大海を知らず


これは良く聞く。

たまに、続きのあるパターンを目にする。


されど、空の青さを知る


これ、もし井戸にブルーシートをかぶせてあったら、

知ってたのはブルーシートの青さになる。


つまり、生まれてこのかた井戸から出たことのない蛙は、
井戸の上に見えているそれを、

本物の空だと判断するすべがない


自分の場所を肯定する為の悪あがきでついた文句だろうが、

やっぱり、ホンモノを確認するためにも、

たまには井戸から出た方がいい。

そして好きなときに戻ったらいい。

べつに自分の居場所に居てはいけないわけではないだろう。

2010/04/06

ハーバード大学白熱教室

NHK 日曜日18:00〜
頭の悪いトレンディ謎解きドラマよりも へたなサスペンスドラマよりも
だるい政治討論よりも 絶対に面白い

テーマ自体は ほとんど誰でも理解できる
けれど答えを出せと言われると多くの人が困るであろう
「正義とは?」のような哲学的命題
それをハーバード大学の授業で取り上げる
世界最高の教授と世界最高の学生さんたちが
話し合うとこうなるのかと そのやりとりに鳥肌が立つ

思えばあるテーマについてちゃんと議論するのってけっこう難しい
多くの人はなかなかテーマとまっすぐに向かい合えない
「答えなど最初から決まってる、それを話し合う意味などない」と、話し合いの席に着かない人
「答えなどない、人それぞれに決まってる」と、これまた話し合いの席に着かない人
「だからお前はダメなんだ」と、相手の性格や人格を攻撃しテーマ自体の話し合いを忘れてしまう人
「問題自体に欠陥がある」と、テーマの上に立ってやり過ごそうとする人
あるいはそれらの複合型

べつに議論を潰したいわけじゃなくても
議論ってなんなのか、なぜ議論するのかが分かっておらず、ある程度の経験がないと
本筋を維持すること自体が難しいからそうなってしまう

けれどハーバードの学生さんは当然、そんなことはない
甲であるか乙であるか、どちらかの立場に立ち
的確に理論を組み立てて「簡潔に」(ここ重要)自分の意見を述べる
教授はその意見の「穴」に対し厳しい問いかけをする
すると学生さんはその場で理論を組み立て直し、再度意見を述べる
自分の意見はなぜ正しいのか、なぜそう思うのかを述べる
当然全員が必ずしも的確に答え切れているわけではないが
やはりその姿勢にしびれる憧れる

けれど、本当に重要なのは、それだけではない
そこには「教授の問いかけを正しく理解する」という力が働いている
決して的外れな意見は述べないし、噛み合ない話もしない
ボクシングで言えばクリンチのないクリーンヒットだけの打ち合いよけ合い

自分が政治討論番組を嫌いで少し見てもすぐやめてしまうのは
パネリストたちに「聞く姿勢」があんまり見られないからだ
そして一旦自分が意見を述べる番になるとやたらと長い(まあ人のことは言えないが)
長いから誰かが途中で遮ってわあわあなる んでなんかたまに爆笑がおこったりする
確かに一瞬で相手の話を理解しているのかもしれない
だが進行自体はマイクの取り合い遮り合いぶつけ合い
だから全然高度に見えない

何を問われているかが理解できれていれば
意見を述べる時、自分が何を述べるべきか
逆に何を述べる必要がないかを考えられる
だから発言は簡潔になる 問いが理解できてないから話が冗長になる

日本の裁判員制度は始まったばかり
成人の誰しもが、誰かを裁く議論の場で意見を述べる可能性を持っている
「ハーバード白熱教室」は、日本人全員が必須で見ておくべき番組ではないかとすら思う
授業って、話し合うって、世界最高レベルではこうなるのかと見ておくべき

でもさあなんで日曜6時?
娘のいる我が家ではその時間は絶対ちびまる子ちゃんとサザエさんに変えられちゃうじゃん!

2010/04/02

うまくは言えないけど

へたくそな話をして、後になってから、

ああ、ああいうときに「うまくは言えないけど」って使うべきなのか、と思うときは少なくない

けれど、「うまくは言えないけど」って、日常で使ってる人、見たことない

だいたい、適切なタイミングで「うまくは言えないけど」って用いること自体うまい言い方

そして使われたらきっとイラッとくる

2010/03/22

歌詞カード

めい3歳はいまプリキュアに夢中である。
最近新しく始まったハートキャッチ!プリキュアの、エンディングテーマを覚えたくて仕方がない。
すこしだけ覚えた場所をずっと口ずさんでるので、歌詞カードを作ってあげる事にした。

ネットで適当に検索して、あとはワープロにコピペして…のはずが、何とプリンタのインク切れ。
でもこのタイミングは逃したくない。
これは教育のコツの1つらしいのだが、子供が何かを知りたがっている時、親はその資料を素早く提供する事で、知りたい→分かった!という知る喜びが体験でき、自分で物事を調べる習慣に繋がって行くというのだ。

そこで仕方なく手書きで対応する事に。
しかし手書きとなると、歌詞って結構長いもの。
最初と最後がおなじフレーズなので、最後の方は省略してめい3歳に手渡した。

汚い字ではあるが、喜んで歌詞を読んで覚えようとするめい。

ところが、しばらくすると、その歌詞カードを持って来て、こっちに見せてくれた。



「さいごは『ハートキャッチ プリキュア』やからね、かいといてあげた」

手直ししてもらいました。

2010/03/15

『父(習作)』


眼鏡を忘れていたので描き足した所、どうも「役作り」っぽくなってしまい、
現実らしさが失われてしまったので、かけないままにしておくことにした。
でも頭頂部の毛髪を外すと、今度は完全に普通の人になってしまい、架空との接点が
なくなってしまう。難しい所だ。
「おじいちゃんの写真を撮るですぅ」とか言ってカメラを向けられたら、読んでた新聞を
たたみ、眼鏡を取ってこっちを向いたと考えても、さほど不自然とも思えないからいいか。

この表情は我ながら好き。54歳らしい。う〜ん、まあ。

『同僚(習作)』

似顔絵が実在をデフォルメしたものならば、この絵はちょうどその逆、
デフォルメを実在に戻そうとする試みである。
しかしフィクションには原則、もとの現実はない。
結局これは、「フィクションから架空の実在に戻す試み」となる。
この絵はまだまだフィクション寄りであるが、それは単に頭が大きいとか、
そういう造形的な問題を意味しない。
表情や仕草である。
例えば会社員であるならば、同僚に声をかけようと、書類を持ってタイミングを
見計らっている瞬間とか、昼休みに売店でポケットの小銭を探す瞬間とか、
そういう場面を狙って描けたらと思う。それが目標である。


「上司」というタイトルにしかけてたところ、調べたら同僚だった(27歳らしい)。

2010/03/10

そろそろ暴力の定義が見直される頃では

「言葉の暴力」などと言うけれど、もうそんな区別は必要ないのではないか。
「ペンは剣よりも強し」と言うが、剣よりも正しいとは限らない。
ペンだろうが剣だろうが、素手だろうが文字だろうが、そしてたとえ映画だろうが、
理解より勝利を優先させるのは、方法のいかんに関わらず、暴力と呼ぶべきだ。

日本のイルカ漁を一方的に非難する為にドキュメンタリー映画を作った監督の
手段が、まさにそれだ。
この映画について忘れてはならないのは、カメラに写された相手は、巨大な権力を
持った政治家でもなく、銃を持ったテロ集団でもなく、ただ自国で自分たちの生活を営む
庶民にすぎないということだ。
権力や銃などに立ち向かうためのカメラならば、支持されてもおかしくはない。
しかしカメラも持たない人間に一方的に向けられるカメラ、これはカメラこそが
暴力なのだ。

自分の気に入らない相手を、手を換えた暴力で締め上げ、残った手で握手を求める。
今までアメリカがやってきて、そして何度も非難されている手口と何ら変わりない。
むしろ、より知能的になった分、シーシェパードなどよりもはるかにたちが悪い。
圧倒的優位に立ったことを確認して「これは恋文だ」と宣言するのである。

日本は、確かに外国の「自分のNoを言える口」に憧れたかもしれない。
しかしその相手には「相手のYesを聞ける耳」がまだ足りなかったようだ。
大統領も代わり、少しずつ学んではいるはずだが、こんな映画が作られるようでは、
もう少し時間が必要だと思われる。

2010/03/07

景色のない歌

「キズナ」「繋がり」「ケータイ」「思い」「伝えたいから」
そういうキーワードがてんこもりの歌詞ほど、そういう思いを抱いてる
自分しか見えてないってのは何かの皮肉かな。
「言葉にならなくて」なんてのもよくあるキーワードだけど
それじゃある意味歌作りを放棄してるってもんだ。
例えば昔の歌だけど「なごり雪」なんかでは、その言葉にならない思いを
そのとき見える景色に込めて歌っている。
そうして描かれる心情の、なんと胸に響くことか。

2010/03/02

物言い

普段はあまり明瞭に話さず、相手にしょっちゅう「え?」と聞き返させてしまう。
自分ではそのつもりがなくても、不機嫌そうに見られてしまうものの言い方をする。
会話の直後にいつも、自分が話した言葉について後悔する。何が悔しいかって、自分でそれらの事が分かってて、でも分かってるという認識があることで自分を許そうとしている点。

2010/02/16

やまをつくるひと

読売新聞記事より引用

「アイコがこの競技のレベルを上げた」と話す銀メダルのジェニファー・ハイル(カナダ)の言葉が、上村がライバルに与えた刺激の大きさを象徴している。

金メダルを取る事の栄光は計り知れない。
けれど、自分としては、ある山の頂点に立つ事よりも、その山を作ることに憧れる。それをした人を尊敬する。

その意味で、ターン技術の新しい時代を作ったという事実は、メダルと違い、もう誰も取り返せない栄光であると思う。

2010/02/15

3Dテレビ

3D対応テレビというのがこれから出始めるようだ。
昨年末あたりからちらほら噂されてたのを知ってたというのもあって、ちょうどその時期に買い替えたテレビはDXアンテナの22インチ、36,800円で購入。
本当に3Dが見やすくなるのにはもう少し時間がかかると思うし、それほど見たいとも思わなくても、頑張って買い替えた直後に、新技術対応の商品が出始めるのって、テレビに限らず、なんかくやしいから、その心理的ダメージを最小限にするために、極めて安いものに。でもこのテレビ、意外と評価は高く、実際これでいいかと思ってしまえば本当にいいと思えるコストパフォーマンスの良さがある。

2010/02/06

ハイジうた

♪くちぶえはなぜ〜 とおくまでちこえるの〜

まあこのへんはいい。問題は次あたりから。

♪あのくもはなぜ〜 わた〜しをらったらら

おかしい おかしいよ

♪はじ〜めて〜 おちい〜かん〜

カ オ ス

♪はじ〜めて〜 おちい〜かん〜
♪はじめて〜

せめて、意味のある言葉で勘違いして下さい。

2010/02/05

過保護

過保護に育つとは非常に厄介なもので、例えば他人への配慮に欠ける、何をするにしても指示待ちなんて特徴が良く取り上げられるけれども、それにはまずそうすることを教わらないなんてものじゃなく、むしろ遠ざけられたと言っても良いくらいに、そういうことに関する思考が働かないという理由がある。だが忘れてはいけないのがもう1つ、そういう育てられ方は、育てられる本人もどこかで嫌気がさしていて、自分だったらもっと放っておくとか、あるいはもっと遠くから見守るという理想を抱えることになり、それを他人に投影する結果、何もしない事が思いやりであるという基本概念が育ってしまう。

個人主義とか個性やプライバシーの尊重とかがとかく叫ばれた時代があったのは、日本の経済が好景気を迎えたとき、その世代の多くの子供が過保護になっていったからなのだろうか。金銭的に豊かになり、しかしそのために親の仕事時間は長くなり、家庭は核家族を目指して解体されて行った。そばにいるヒトとの関係と引き換えに、与えられるモノは増えて行った。単に生産があふれたからではなく、そういう交換があったからこそ、やがてはモノに見慣れ、ヒトは見慣れないものになった。そんな流れは、やっぱりあったのだろうか。

今、一番子供に与えたいのは、よきヒトとの関係だ。

自分が未だに上手に手に入れる事のできないソレを子供がちゃんと手に入れられたとしたら、もう一度時代に期待が持てるような気がする。早く手に入れて、俺に教えてくれ。そういうあつかましい方針。

2010/01/25

歴史とは人なり

最近、業務のオンライン化というのが進められていて、以前まで役所まで足を運んでいた手続きを、ネットを通じてしましょう、紙は電子化しましょう、という動きが活性化している。

それはいいのだけれど、この流れ、おおざっぱに言えば「デジタル化」なるものの動きを、しばしば勘違いされて捉えられているのではないかと思う。

こんなことがPCでできます、これが時代の流れです、みなさんも使いましょう、と号令がかかる。その運動は、特にデジタルへの意識の低いアナログな人にとっては、まるでデジタルが時代の先にあり、今もその先へと歩を進めており、アナログ人間はそのデジタルの進む同じ方向へ、早く追いついて下さい、と言われているように映る。

ここに思い違いがある。

そもそも時代とは、全てがある決まった一方向に向かって進んでいるものではない。

何が言いたいか。
デジタルは、 デジタルの先へ進んでいるのではない。
アナログがデジタル化へと進む一方で、デジタルはアナログを目指して進んでいるのである。

デジタルは最初、0と1だけの世界から始まった。
色で言えば、白か黒。「完全にOK」か「完全にダメ」かの、究極にアトミック(原子的)な世界だった。
しかしそれでは使えないと、桁を2つにした。
そうすると、00,01,10,11と、色で言えば4つの段階を出せるようになった。
それを3桁、4桁…と増やして行く事で、やがて人間の眼には一段階の差が判別できないような、24桁の0か1による、1677万7216色を扱えるようになった。
つまりそれだけの「中間」を手に入れた、言い換えれば、アナログへと進んだのである。

不動産登記のオンライン申請利用率は現在10%ちょいだと言う。
これを『アナログ人間がデジタルに追いつけていない事を表す数字』だと言うならば、同時に『不動産登記におけるデジタルがアナログに追いつけていないことを表す数字』だとも言わなければならない。
その意味を忘れてしまうと、デジタルがデジタルに向かって進んでしまう。これは危うい。自分の先を見失い、必ず迷走を始める。

例えば現在当然のように使えるインターネットも、最初はコマンドラインからだった。
しかし「PCが人間に向かって」進歩した結果、利用するための敷居が下がり、敷居が下がった事で、利用できる人が増えた。その事と、利用しようとする人間側の基礎知識やリテラシーなるものが育ってきた、すなわち「人間がPCに向かって」進歩したのとは同時に起こっているのである。
それを忘れると、あたかも「自分が自分からPCに追いついた」かのような錯覚に陥り、追いついていない人間を「遅れているもの」と認識しようとする。
そうではない。
遅れているものすなわちアナログ人間は、追いつけないのではない。
むしろ待っているのだ。
デジタル人間がその技術を持って進歩しアナログ人間に近づいてきてくれる事を、待っているのだ。

デジタル化オンライン化とは、今までの、そしてこれからの歴史をデジタルにする事。
歴史とは、紙に残ったもの、記録に残ったものでもあるが、それ以上に、その紙に書いた、記録を残した人間の事。
長い間、紙媒体にて仕事を続けてきた人は、その分だけ「歴史」を所持しているのである。

だからオンライン化、デジタル化とは、そういうアナログな人間に、PCをただ使わせて目指す事ではない。その人がデジタル技術を使えないというなら、それを使える人間からその人に向かって、自分たちの技術を進め、歩み寄らせて行く。あたかも、ネットの世界がコマンドラインからグラフィカルへと降りてきたように。

それこそが本当の「デジタル化」なのだ。

2010/01/17

命の心

昨年9月に、認知症にかかってから15年は過ぎていた祖母が他界したことについて書いた。

「生きたい(9/16日記)」

ずっと話も出来ず、入院し管を通されて、それでも他界するひと月前、一度は危篤状態から持ち直した、つまり生きる事を選んだことを書いた。

「どんなに死にたいと考えても、意識を失いつつ肉体の活動が絶える最後の一瞬、どんな生き物でも、最後に選ぶのはきっと「生きたい」なのだと思います。」

と書いた。



その一方で、こんな記事がある。

いつも手を繋いで過ごした仲良し老夫婦、妻の死と同じ日に夫も亡くなる。
その記事から関連として貼られている同様の記事へのリンク
同じ日に他界した仲良し夫婦、夫の死から3時間後に妻も亡くなる。

祖母は、最後の最後まで、なおも生きる事を選ぼうとした。
一方で、記事の夫婦、後を追った方は、もう生きない事を選んだ。

死はただの自然現象だ。
火はいつか消える。

「生きたい」か、「生きない」か。
ただの自然現象にどう立ち向かうか、その姿勢の違いについて、偉そうに語れる自分ではない。
それを痛感させられた。

2010/01/11

会話「おみせやさんごっこ」

「いらっしゃいませこんにちは。
お飲み物はどれになさいますか?」
「えーと、リンゴジュース」
「あーすいません、リンゴは無いんですよー」
「何と何がありますか?」
「えーとぶどうとぉ、りんごとぉ…」
「りんごあるやないですか」
「…ぶどうとぉ、みかんとぉ、りんごとぉ…」
「えっだからりんごあるやないですか」
「…ぶどうとぉ、みかんとぉ、いちごとぉ、みず
「み、水!?」
「…とぉ、コーヒーとぉ、ブランド
「ブランド!?」

2010/01/03

アバター

を鑑賞。
いくつかレビューして在る文章でも同じ事が書いてあったが、これは3D映画という手段の幕開けを担うと言う意味で、重要で観る価値のあるものだと思った。
従来の意味での映画として、特にストーリーやテーマに関しては、例えばジブリの宮崎監督が怒りそうな浅〜い展開だ。
宮崎監督はナウシカやもののけ姫なんかで、自然と人間との間に発生してしまう争いを軸に置き、しかしそれはどっちが勝ちでどっちが負け、あちらが正しくてこちらが悪なんていう単純な話では無いのだよ、という描き方にとても気を使っていた。ところがアバターではさすがハリウッド的と言うかアメリカ的というか、「はいこっちが勝ち!そっちの負け!あんた悪!」ていう二元論でどーーんと押し通している。白に疑問を持ったらハイあんた黒の側!二者の間を揺れ動く間なんてありゃしない。
でもそれはこの「3D映画」にとって大した意味を持たない。ジャッキーチェンの映画でストーリーにけちをつけないのと同じ。スーパーマリオで「なんで姫はいちいちさらわれてしまうの?」なんてのもネタとしてしか考えない。アバターでは、とにかく目の前に広がる架空の大自然、あり得ない異星人と動物達、そういうのを存分に体験する事、それが全てと言ってもいい。だからアトラクションとして楽しい、という表現にとっても納得する。
…ところが自分はそういうのがあんまり味わえない。実は右目が病気の関係でピントが合わなくなっちゃったからね。見えはするし日常でも大体の遠近感はつかめるけど、こういう3D映画では常に片目がぼやけてるのが仇となって、とくに近くに迫り来るものがあんまりはっきり見えない。なんてこった。しかしそうでなくても、本来目は自分の見たいところに合わせてピントを合わせるのに、3Dでは強制的にカメラのフォーカスに従わされる。だから凄く近くあるものを見る時、自分が注目してるのに映像はぼやけたまま迫ってきてた。こういう違和感って他は誰も気にしないのかな。